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一色時家 : ミニ英和和英辞書
一色時家[いっしき ときいえ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いち]
  1. (num) one 
一色 : [いっしき, ひといろ]
  1. (adj-na,n) one color 2. one colour 3. one article
: [しきさい, いろ]
 【名詞】 1. (1) colour 2. color 3. (2) sensuality 4. lust 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

一色時家 : ウィキペディア日本語版
一色時家[いっしき ときいえ]

一色 時家(いっしき ときいえ)は、室町時代武将鎌倉公方足利持氏の家臣。
喜連川判鑑に、「一色刑部小輔 大草子ニ時家」と記載されているが、鎌倉大草紙には、「一色刑部大輔持家」と記載されている。前者の「一色刑部小輔」の名は、牛窪記・三河国ニ葉松にも記載がみられ、時家と同一人物とされる。一方、後者の持家は、時家が足利持氏に仕えてその偏諱を賜って名乗ったもので同一人物とみられている。
== 概要 ==
鎌倉公方・足利持氏に仕える。応永33年(1426年)、甲斐国国人武田信長征討に派遣され、郡内の猿橋(山梨県大月市猿橋)において交戦する〔当時甲斐では上方で幕府方の意向を受けた武田信重が新守護に任じられていたが、信長ら甲斐国人勢力は信重の入国を拒んでいた。信長征討は応永28年から三次にわたり行われているがこれは幕府への対抗意識を持つ鎌倉府が信長勢力を懐柔する政治的意図のもとであったと考えられている(秋山敬「上杉禅秀の乱後の甲斐国情勢」『甲斐武田氏と国人』高志出版、2003)〕。
永享10年(1438年)の永享の乱では、伯父の一色直兼と共に持氏方の大将として戦うが敗北、同族の一色氏を頼り三河国に落ち延びた〔『三河国聞書』には、「正長十年十月四日、鎌倉ニ於テ上杉安房守憲実謀反ス。一色宮内大輔直兼、同甥刑部少輔時家、憲実ト合戦ス。鐮倉勢敗軍シ、直兼ハ討死シ、時家ハ遁レテ三州ニ来リ、吉良俊氏ノ許二潜匿ス。翌年嫌倉持氏自害セシ後、宮島長山村 ...」と記載されている。〕。
翌11年(1439年)、三河宝飯郡宮島郷(愛知県豊川市牛久保町付近)に一色城を築城し、ここを根拠地として勢力の拡大を図る。翌12年(1440年)5月の征夷大将軍足利義教による一色義貫誅殺は、三河守護でありながら、持氏方残党の時家を匿ったため起こったといえる〔執筆者新行紀一は「満済准后日記」正月二十日条において三河国人宛に関東公方足利持氏の6通の御内書が出されていたこと等を挙げ、持氏と義貫の通謀を誅殺の原因と推定している(参考文献の2、309頁)。〕。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると、同族の一色氏と行動を共にし西軍に属する。文明8年(1476年)9月、東軍細川成之の三河守護代東条国氏が三河で切腹する事案が発生するが、時家ら三河の一色勢との戦闘に敗北したためと思われる。
翌文明9年(1477年)、被官である三河国人波多野全慶に殺害された。牛頭山大聖寺(同県同市牛久保町岸組、戦国大名今川義元の胴塚の前)にある墓が時家のものとされる。
波多野全慶は、後に同じく時家の被官であった牧野成時によって討たれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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