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ヴァーサ王朝 : ミニ英和和英辞書
ヴァーサ王朝[う゛ぁーさおうちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

ヴァーサ王朝 : ウィキペディア日本語版
ヴァーサ王朝[う゛ぁーさおうちょう]

ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国1523年 - 1654年)の王朝。
ヴァーサ家は元はウップランド地方の貴族階級で、15世紀に高官級に出世した。ポーランド・リトアニア共和国1587年 - 1668年)およびロシア・ツァーリ国( 1610年1613年)を支配した王朝であった。
== 概要 ==

=== スウェーデン ===
スウェーデン王国においてグスタフ・ヴァーサは、14世紀末のカルマル同盟以来120年続いたデンマーク王権の支配に叛旗を翻し、スウェーデンを独立に導いてヴァーサ王朝を興した。その後も北方七年戦争などデンマークとの戦争が続いたが、デンマークがスウェーデンを奪回することはできなかった。
1558年に開始されたリヴォニア戦争では、デンマーク=ノルウェードイツ騎士団リヴォニア帯剣騎士団と結んでモスクワ大公国ロシア・ツァーリ国)のバルト海進出を阻んだ。この時、ヴァーサ家とヤギェウォ家との婚姻によってヴァーサ家はポーランド・リトアニア共和国の王朝に迎え入れられたが、両国の宗教的不一致のため、ヴァーサ家は17世紀半ばまで内紛と抗争を繰り返すこととなった。
第3代ヨハン3世の息子シギスムンドは母親カタジナ・ヤギェロンカがポーランド王女であったため、幼くしてポーランドに送られイエズス会によって教育を施され、ヤギェウォ朝の断絶後に国王自由選挙によってポーランド・リトアニア共和国元首(ポーランド国王兼リトアニア大公)に推戴され、ジグムント3世(ポーランド王としての名)として即位した。ヨハン3世の死後、ジグムント3世はスウェーデンに帰国し、ポーランド王を兼ねたままシギスムントとしてスウェーデン王位に即位した。シギスムントが不在の間は、叔父のカールが摂政としてスウェーデンを統治した。当時スウェーデンでは新教ルター派が広まっていたが、ポーランドはプロテスタント正教徒もかなりいたものの、政治の場では相対的にカトリック教会が優位の国であった。
教会の浄化と刷新を目指してカトリック改革運動をもっとも強力に推し進めるイエズス会に育てられたジグムント3世(シギスムント)は、スウェーデンをカトリックに戻すことを図った(1595年に共和国はプロテスタント信仰を禁じた)。このため、叔父カールらはジグムント3世に対する反感を強め、彼がポーランドに戻るとプロテスタント系のスウェーデン諸侯を糾合して、すぐさま反乱を起こした。シギスムンドはカトリック系のスウェーデン諸侯とともに、こうした動機の遠征には乗り気でないポーランド議会(セイム)軍を率いて反乱討伐に再来したが敗退し、叛乱者カール(カール9世)が事実上のスウェーデン王となった(1604年に正式に即位)。1600年にはカトリック系スウェーデン諸侯を粛清し、ルター派の国教を確立したことで、ジグムント3世との対立は決定的となった。摂政カールの行為は、ポーランド・ヴァーサ家においては謀反であったが、スウェーデンからしてみれば、1593年のウプサラ宗教会議の決議違反を根拠とし、スウェーデンの宗教改革の一端であり、ルター派国家としての独立を願うスウェーデン人にとって、ジグムント3世の政策は受け入れられなかったのである。また、独立を維持するためにスウェーデン人自身による四身分制議会(貴族・聖職者・市民・農民)の権威もこの時代に確立することとなる。これは、スウェーデンの王権を支えるものとなった。
この争いのため、スウェーデンとポーランドのヴァーサ家の間で反目が続き、17世紀にはスウェーデン軍がポーランド領であったリヴォニア方面に侵攻し、リガの町を落とした(スウェーデン・ポーランド戦争)。1626年には東プロイセンを制圧したが、一方、ポーランドはスタニスワフ・コニェツポルスキ将軍を登用し、戦争後期はポーランドが巻き返して戦争自体においては優位を取り戻したものの、フランスの介入によりスウェーデンがきわどく勝利した。ポーランド征服には挫折したものの、スウェーデンは事実上、東欧の大国ポーランド・リトアニア共和国からリヴォニアの大半を奪うことに成功し(1660年に正式認定)、として実効支配が行われた。
この戦争を指導したグスタフ2世アドルフは、ヨーロッパ諸国から「北方の獅子」として知られるようになった。領土を割譲した上、グスタフ2世アドルフによってバルト海を制覇されてしまったことで、ポーランド・ヴァーサ家は名目上スウェーデン王を自称出来ても、実質的な王位の請求は断念せざるを得なくなった。
グスタフ2世アドルフは三十年戦争にも介入し、ドイツでプロテスタントの盟主として、カトリックの盟主ハプスブルク家神聖ローマ皇帝)と戦い(古ゴート主義の理念の拡大による)、フランスと連携しつつハプスブルク家を追い詰めて行った。グスタフ2世アドルフ自身はリュッツェンの戦いで戦死したが、フランスの直接介入もあって、スウェーデン軍はその後もドイツで戦いを続けた。ヴェストファーレン条約でスウェーデンは北ドイツに広大な領土を獲得、一躍北方の大国となり、ヨーロッパでの強国の一つにのし上がった(バルト帝国)。さらに北欧での宿敵関係にあったデンマークとも、三十年戦争後期にトルステンソン戦争を行い、オランダと結びデンマークを撃破した。この勝利によってスウェーデンは、北欧での覇権も打ち立てることに成功した。
しかし、クリスティーナ女王は個人的な理由から退位し、その従兄でプファルツヴィッテルスバッハ家傍系のカール・グスタフ(カール10世)が即位したため、スウェーデンのヴァーサ王家は断絶し、プファルツ王朝に代わった。プファルツ=クレーブルク家出身のカール・グスタフは、スウェーデン・ヴァーサ家の外戚であり、グスタフ・アドルフの異母姉の子であった。カール10世は王位継承を巡り、即位翌年の1655年にポーランド・リトアニア共和国と戦端を開き、その死まで戦場下にあった(北方戦争)。カール10世は、共和国には軍事的敗北を喫したものの、バルト海での優位を保ち、1660年にポーランド・ヴァーサ家のスウェーデン王位請求権を完全に放棄させると共に、自家をスウェーデンの王家として認めさせることに成功した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴァーサ王朝」の詳細全文を読む




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