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リヴォニア戦争 : ミニ英和和英辞書
リヴォニア戦争[りヴぉにあせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

リヴォニア戦争 : ウィキペディア日本語版
リヴォニア戦争[りヴぉにあせんそう]

リヴォニア戦争(リヴォニアせんそう、)とは、1558年から1583年テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニアリヴォニア)の支配を巡り行なわれた戦争。モスクワ国家(モスクワ大公国ロシア・ツァーリ国)、ポーランド・リトアニア連合スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にし戦った。1557年リヴォニア帯剣騎士団が加盟)、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(後のポーランド・リトアニア共和国)が相互安全保障条約を結び、イヴァン雷帝は、リヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなし、ロシアがリヴォニア帯剣騎士団領に侵攻し開戦した。
1561年リヴォニア帯剣騎士団は解散、世俗化した。テッラ・マリアナは、とスウェーデン・エストニアとなり、デンマーク王はを買った。1558年–1578年、タルトゥナルヴァでの軍事的成功と共にロシアの支配が主流となった。
1576年以降、ポーランド・リトアニア共和国が好戦、1577年–1578年のスウェーデン・ポーランド・リトアニア同盟によるでの抗戦を含む。これはポーランド王を拡大させ、長く厳しいへと縺れ込んだ。
1582年ヤム・ザポルスキの和約の基、ロシアとポーランド・リトアニア共和国は終戦した。ロシアは、リヴォニアとポラツク(現ベラルーシ)からポーランド・リトアニアまでの元占拠地を失った。
1583年、ロシアとスウェーデンはに調印し、スウェーデンはエストニア公国を保持しながら大部分のイングリアとリヴォニア北部を獲得した。

== 概要 ==

西欧との通商を求めてバルト海への進出を試みるモスクワのツァーリイヴァン4世は、リヴォニア騎士団宣戦布告したことでリヴォニア戦争は開戦した。
なお、ほぼ同時期、エストニアエストラント)を巡ってデンマークとスウェーデンとが北方七年戦争1563年 - 1570年)を起こしているが、直接リヴォニア戦争と関連している訳ではない。デンマーク、スウェーデンが主な戦場としたのは、エストニアやスカンディナヴィア半島であり、ポーランド、ロシアとは直接、戦端を開いていない。
この戦争の最中、ポーランド・ヤギェウォ家とスウェーデン・ヴァーサ家は婚姻関係を結び、同時に対ロシア同盟を組んだ。この同盟により、ロシアはポーランド・スウェーデンから挟撃されることとなった(当時のフィンランド公ヨハンとポーランド王女カタジナの結婚は、当時のスウェーデン国王からは容認されなかったが、フィンランド公ヨハンが1568年クーデターを起こしスウェーデン王ヨハン3世として即位して以降、共闘関係が成立した。カタジナはヨハン3世との間に3子を生み、長男シギスムンドカトリック教徒として教育を受け、戦争終結後の1587年にポーランド王兼リトアニア大公として即位する)。
侵略の危機に晒されたリヴォニア騎士団は、まずリトアニア大公国同盟し、さらにポーランド王の従属国化を承認したものの、ロシア軍の侵攻により、滅亡は避けられない状況となった。これに目を付けたリトアニア大公国軍とスウェーデン王国軍がリヴォニアに侵攻したため、リヴォニア騎士団領は解体される事となった。デンマークは、スウェーデンのバルト海進出を阻む為に別個の戦端を開いた。
この状態を見たリヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケトラーは、ポーランド王国に臣従し、残った領地をもってポーランドの後ろ盾でクールラント公国を建国した(1561年)。その後リトアニア大公国軍は、ロシア軍と交戦し有利に立つものの、国力を浪費し、長期戦に耐えることが不可能となり、同君連合を取るポーランド王国軍の参戦を求めた。ここにポーランドは直接参戦に踏み切ることになった。またリトアニア大公国の支配階層の多数を占めたルーシ人の住む広大な地域(現在のベラルーシウクライナ、ロシアのスモレンスク地方に相当)はポーランド王国のいくつかのとして再編された。ポーランドとリトアニアは1569年ルブリン合同を結び、両国は共通する議会を持つ一体の政治機構となった。以降のポーランド・リトアニア連合を、「共和国」と呼ぶようになる。
ポーランド・リトアニア共和国の国力は強大となり、リトアニア大公国がウクライナ地方を持っていたときに交わした隣接するクリミア・ハン国との同盟を利用し、オスマン帝国とクリミア・ハン国の共同作戦(露土戦争1568年 - 1570年)を引き出した。1570年にその講和条約がオスマン帝国とロシアの間で締結されたが、1571年にはクリミア・ハン国が単独でモスクワに侵攻し()、モスクワを焼き払った()。スウェーデンもエリク14世から王位を簒奪したヨハン3世の元で北方七年戦争を終結させ、再攻撃を開始した。ヨハン3世は前国王エリク14世を幽閉、1577年にこれを毒殺し、前王妃・王太子を追放してヴァーサ家の本家としてスウェーデン=フィンランドに君臨した(ヨハン3世の親カトリックと息子シギスムンドのポーランド王即位によるポーランド・スウェーデン同君連合国家の設立は、スウェーデン上層部の間に不満を高めさせる結果となった)。ポーランドは1572年ヤギェウォ朝が断絶。翌1573年選挙王政となった。この隙をついてロシアが反撃を始めたものの、ポーランドの政治体制はもともと王権の弱い議会制であり、首相に相当するカンツェシュ(チャンセラー=大法官、多くは大元帥に相当する王冠領大ヘトマンを兼任)を事実上の長とする国王評議会(内閣)が軍事・外交を含めた行政のすべてを運営していたため、これはロシアの誤算であった。ロシア軍による侵攻は一時的にはリヴォニアの領有を果たすことに成功したものの、ほどなく北からのスウェーデン、南からのポーランドの同盟軍の反撃に遭い、ロシアの国力を大きく疲弊させられることとなった。余勢を駆ったポーランド軍はさらにステファン・バートリ王の元で逆にロシアに侵攻したが、ポーランドも選挙王政に入り国会による審議や会計監査が厳格化されたことで、政府は出費のかさむ長期戦を余儀なくされることを避けることを決定、和平を結ぶ事に同意した。イヴァン4世も自国の主要都市が包囲されたことで防衛のために和平交渉を開始し、1582年に両国はローマ教皇の仲介で、戦前の状態に戻すことで、休戦条約が結ばれた(ヤム・ザポルスキの和約)。
1583年スウェーデンと(、)を締結して休戦し、スウェーデンはリヴォニアから撤退し、ロシアはエストニア(エストニア公国)とナルヴァラドガ湖西岸をスウェーデンに割譲した。この結果、ロシアのバルト海進出は絶望的となった(1590年代のの敗北により、スウェーデンはフィンランド湾深奥部を一時的に喪失したが、1595年のロシアとの講和条約によってエストニア公国のスウェーデン領有が確定する)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リヴォニア戦争」の詳細全文を読む




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