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バルト帝国 : ミニ英和和英辞書
バルト帝国[ばるとていこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みかど]
 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence 
帝国 : [ていこく]
 【名詞】 1. empire 2. imperial 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

バルト帝国 : ウィキペディア日本語版
バルト帝国[ばるとていこく]

バルト帝国(バルトていこく、、スウェーデン帝国(Sverigesväldet)ともいう〔入江、P3 - P15。 〕)は、近世ヨーロッパバルト海及びその沿岸を支配した国家、スウェーデン王国が繁栄した大国時代の日本での呼称。スウェーデン人自身はこの政体を「帝国」とは呼ばなかったが、複数の言語民族の領域を支配した事から日本ではそれを踏まえてこう呼ばれる。グスタフ2世アドルフのバルト帝国建国から、1700年代に始まった大北方戦争によってスウェーデンがロシア帝国に敗れるまでのおよそ1世紀間についてこう呼ばれる。スウェーデンでは「大国時代」(stormaktstiden)と呼ばれている。
 
== 概要 ==
「バルト」とは、中世以来バルト海沿岸地域全体を指し示す呼称として用いられて来た。この環バルト海の覇権を巡り、ロシアデンマークプロイセンポーランドなどが争った。このバルト海を制す国が、後世バルト帝国と呼ばれるようになる。そのため、バルト海を意味する「マーレ・バルティクム」(''Mare Balticum'', ラテン語)は、バルト帝国と同意義語として扱われる様になった。バルト海はまた、ヴァイキング時代の後に「スウェーデン海」、あるいはスウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)の名から付けられた「ヴァリャーグ海」とも呼ばれた事もあった〔志摩、P25。〕。
マーレ・バルティクムがバルト帝国と同義とされるのは、バルト海の制海権も含めているからである。この制海権は、ハンザ同盟の支配から15世紀にデンマークに移り、16世紀半ばには事実上スウェーデンの支配に帰した事にある(もっとも、バルト海南岸及びデンマーク近海は依然デンマークの影響下にあった)。また17世紀後半にはプロイセン艦隊もバルト海南部に影響力を誇っていた。とは言えバルト海全域を見ると、17世紀全般にわたり依然スウェーデンの影響が強く、バルト海の支配者はスウェーデンであったと言える(スウェーデン海軍は、北欧ではデンマーク海軍とほぼ拮抗した規模を擁していた)。またスウェーデンは、北海に通じるエーレスンド海峡の自由通行権も1645年にデンマークより獲得していた〔武田,物語 北欧の歴史、P51。〕。デンマークは15世紀(1429年)以降この海峡を通過する船舶から海峡通行税を得ていた。しかしスウェーデンは、デンマークに対する優位の一つとしてこの通行税免除を勝ち得ていた(大北方戦争終結後のデンマークとのフレデリクスボー条約(1720年)でスウェーデンは通行税免除の撤廃をし、以後19世紀半ばの1857年まで通行税の支払いが行われた)。しかしロシアはこれに対抗する為、17世紀後半から港湾と艦隊建造に邁進し、18世紀に始まった大北方戦争でスウェーデン艦隊を撃破し、バルト海の制海権もロシアに移って行くのである。
スウェーデンがバルト帝国として近世における大国の地位の基礎を築いたのが、1558年に始まるリヴォニア戦争だった。デンマーク=ノルウェードイツ騎士団リヴォニア帯剣騎士団と連携しロシア・ツァーリ国のバルト海進出を阻んだ戦争だった。ロシアが再びその勢力を復活させるまでの間、スウェーデンはバルト海を巡る闘争を通しヨーロッパの強国の一つとして存在感を示しかつてカルマル同盟として宗主国にあったデンマークから独立した。
リヴォニア戦争後、一時弱体化したが、17世紀初頭のロシア大動乱への参戦を通じて、ロシアにおけるヨーロッパへの窓、バルト海への出口を確保してロシアを再駆逐する事で真のバルト帝国の時代が始まったとされる。ドイツ三十年戦争に勝利し、同時にデンマークをバルト海から撤退させる事でバルト帝国は完成したと言える。
スウェーデン・ヴァーサ家は、後継者が無く1654年に断絶。その後、バルト帝国を継承したのは、スウェーデン・ヴァーサ家の外戚となっていた神聖ローマ帝国諸侯ヴィッテルスバッハ家傍系のプファルツ家だった。プファルツ家は北方戦争を起こし、スウェーデン王位を望むポーランド・ヴァーサ家からの野心を阻止し、デンマークに対する優位を示してスウェーデンの継承王朝として君臨する事となった。
この時代、17世紀後半は、ブランデンブルク=プロイセンなどの新興国に大国の地位を脅かされ、国力低下ももたらしたが、フランスイングランドとの友好関係や神聖ローマ帝国におけるレーエン関係の回復、絶対王政を含めた諸改革の断行によって、三十年戦争後のヴェストファーレン体制における列強の一国として君臨し続ける事に成功した。こうしてヨーロッパの大国の一つとして18世紀を迎えたが、近隣諸国との折衝はうまく行かず、その近隣諸国によって大北方戦争を引き起こされる事となった。
しかしその大戦争の初期は、バルト海沿岸諸国を圧倒し、その存在感を示したスウェーデン最後の強国時代であった。しかし日増しに東欧における存在感を増大化し続けたロシアによる敗北は、スウェーデンにおける大国時代に幕を引きずり下ろされた形となり、以降、ヨーロッパの小国に転落したスウェーデンに代ってバルト海の覇権を奪取したロシア帝国の時代が開始される事となる。
1700年から20年に渡った大北方戦争は、結果としてスウェーデンの国力全般の衰退をもたらし、以後、ヨーロッパの大国として復活することはなかった。18世紀以降のスウェーデンは衰退と中興の時代であった。しかし北欧はすでにヨーロッパの中でその存在感を示す余地はなかった。すでに小国に転落していたデンマークと共に、スウェーデンはヨーロッパの情勢に対しては中立主義を目指すようになり、19世紀以後のヨーロッパ諸国による帝国主義とは一線を画す事となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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