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ヴァリャーグからギリシャへの道 : ミニ英和和英辞書
ヴァリャーグからギリシャへの道[う゛ぁりゃーぐからぎりしゃへのみち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴァリャーグからギリシャへの道 : ウィキペディア日本語版
ヴァリャーグからギリシャへの道[う゛ぁりゃーぐからぎりしゃへのみち]

ヴァリャーグからギリシャへの道(ヴァリャギからグレキへの道)(、、)は、河川にそってルーシを縦断し、またバルト海を越えてスカンディナヴィア黒海を越えて東ローマ帝国へも至る水上交易路である。8世紀から13世紀にかけて存在したこの交易路を通して、バルト海沿岸に住むヴァリャーグは、行動範囲を東欧南部やアナトリア半島まで拡大させた。またルーシの商人は、この道をスカンディナヴィアやコンスタンティノープルとの交易のために利用した。ルーシの歴史を記した『原初年代記』では、この道は「」(ヴァリャギからグレキへ)と記されている。
留意事項)以下の「主幹ルート」・「分岐ルート」の名称は、説明上便宜的に用いた用語である。また「ルーシ」はおおよそキエフ大公国の支配領域を指す。地名は現在の現地の言語の転写表記よりも、歴史学的文献等において一般的と思われる表記を優先している。
== 地理 ==

主幹ルート
年代記に記された「ヴァリャーグからギリシャへの道」を、現在の地名にあてはめるならば、古代のスカンディナヴィアの商業の中心地である、ビルカヴィスビュー、バルト海南岸などが北の起点である。西方へは、バルト海を横切りドイツ北岸の、、リューゲン島の、ポーランド北岸のシュチェチン等へいく海路が存在した。
ルーシの地での航路はまずフィンランド湾へ入り、フィンランド湾に注ぐネヴァ川を遡上、さらにラドガ湖ヴォルホフ川イリメニ湖ロヴァチ川クーニヤ川セリョージャ川というように、合流する河川や湖を船で乗り継いでいく。河川の道が途切れた後は、を船を引きずってタローパ川まで進む。タローパ川から再びダウガヴァ川(西ドヴィナ川)、カースプリャ川、カースプリャ湖(ru)と河川をたどっていくと、そこにはがあり、またドニエプル川へつながる小川までの連水陸路があった。再び陸路を船を引きずって小川へ入り、小川からドニエプル川へ、そしてドニエプル急流(uk)を越えて黒海へと至った。ルーシの平原は勾配が少なく、小さな船でも航行が容易だった〔『ポーランド・ウクライナ・バルト史』12頁〕。
黒海では、商人たちはヨーロッパ側の海岸沿いをコンスタンティノープルまで向かった。黒海を航海するには、ドニエプル中州の、あるいは河口付近ので船に帆を取り付けた。黒海上では停泊地としてはドナウ・デルタ近くのがあるのみだった。
分岐ルート・他の交易路との接続
上記のルートに加え、複数の分岐路があった。たとえばルーシ北部には、ポロツクを通り、ダウガヴァ川を下ってバルト海へ直接出る最短の航路があった。また、ドルツィ川まで陸路を採り、そしてドニエプル沿いに黒海へ出る方法もあった。このルートの存在は、スモレンスクの西12kmにある居住地域跡の二つのクルガンから証明することができる。この地のクルガンのうちNo.38とNo.47は、スカンディナヴィアとバルトの文化の影響を確実に受けている。
黒海にもまた分岐路があった。クリミア半島の付根のペレコープ地峡を越えてアゾフ海へと向かうルートである。かつてペレコープ地峡を横切る古代の運河があったが、時と共に運河は砂礫で埋まり、深い森へと変わったという。アゾフ海からはドン川を遡り、その後ドン川左岸の支流のイローヴリャ川に沿って航海し、ヴォルガ川右岸の支流に向かう連水陸路を進み、さらにヴォルガ川から河口のカスピ海へと至った。なお、ヴォルガ川やカスピ海はヴァリャーグからペルシアへの東の水の路(ヴァリャーグからハザールへの道、もしくはブルガールへの道。)の一部でもあった。さらにいえば、そもそも黒海自体が、南ブーフ川ドニエストル川ドナウ川を通じて西欧へと至る商業路の要衝だった。地中海にはイタリア港湾都市を含む、ヨーロッパ大西洋岸への航路が存在した。おびただしい数の資料や考古学上の発見が、航路の存在を証明している。
主幹ルートの地域区分
歴史学の中には、「ヴァリャーグからギリシャへの道」を3つの主要地域に分ける見解もある。1つ目は北部のスモレンスク-ノヴゴロド-バルト海間の、ルーシ北部と北欧を結ぶルートである。その上この地域は、13世紀にはハンザ同盟と共に重要な交易を行っていた地域でもある。2つ目はルーシ南部とバルカン半島とをつなぐ、キエフ-コンスタンティノープル間の地域である。13世紀の半ばまで、東ローマ帝国とキエフ大公国には有力者の交流があった。3つ目はキエフ-ノヴゴロド間である。この部分の道は、キエフ大公国内の商業と交通を主たる目的として使用された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴァリャーグからギリシャへの道」の詳細全文を読む




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