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ローランド・ボック : ミニ英和和英辞書
ローランド・ボック[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ローランド・ボック ( リダイレクト:ローラン・ボック ) : ウィキペディア日本語版
ローラン・ボック[らん]

ローラン・ボックRoland Bock1944年8月3日 - )は、ドイツの元プロレスラー。旧西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ガイスリンゲン出身。
リングネームはローランド・ボックとも表記されていた〔"Roland" のカタカナ表記は「ローラント」がドイツ式の原音に近いが、本人はプロレス専門紙『週刊ファイト』でのインタビューにおいて「ローラントは間違いなので、ローラン・ボックと表記してほしい」と語っていた。これはヨーロッパで広く知られるフランス叙事詩 "(ローランの歌)" の主人公に自らを重ねていたことに由来する(シュトゥットガルトでのアントニオ猪木戦で、ボックを応援する観客が大合唱したのがローランの歌である)。つまり、リングネームとしては「ローラン」とフランス語風に発音することを本人は希望していた。〕。また、1978年アントニオ猪木との対戦を報じた雑誌では、明らかな誤表記であるがローラン・ブルックなどと紹介されたこともある。
ドイツを主戦場に、アマチュア時代に培った高度なレスリング技術と巨体から繰り出される怪力を活かして活躍したが、後述するジョージ・ゴーディエンコダニー・リンチアントニオ猪木アンドレ・ザ・ジャイアントとの試合など、プロレスの暗黙の了解をしばしば無視し、時には対戦相手を故意に負傷させるといった悪評も付いて回った〔自身も同様の悪評と無縁とは言えなかったカール・ゴッチは、ボックからの対戦オファーを受けたアントニオ猪木に、あんなルール破りの男と戦うのは危険だと忠告したなどと伝えられるが、ゴッチは1978年当時、ボックと不仲だったドイツのプロモーターのグスタル・カイザーと新日本プロレスとの提携の仲介役を担っていた。そのためゴッチは、ボックと新日本が接近することでカイザーが態度を硬化させてしまっては、新日本のブッカーとしての今後の自分の立場に支障をきたすという思惑から、ボックのオファーに応じないよう猪木を説得していたともされる(『Gスピリッツ Vol.22』、P67)。〕。その妥協なきファイトスタイルから、日本では「地獄の墓掘人」の異名を持つ。
== 来歴 ==
14歳でレスリングをはじめ、1961年西ドイツのジュニア選手権で優勝〔『Gスピリッツ Vol.21』、P4。〕。1963年にはシニア選手権でフリースタイルの3位に入賞し、翌1964年東京オリンピックにノミネートされるが、関節を痛めて出場を断念している〔。1968年、グレコローマンスタイルのヘビー級西ドイツ代表としてメキシコシティオリンピックに出場〔。1970年には欧州選手権で優勝し、1972年ミュンヘンオリンピックにも出場予定だったが、同年に行われた欧州選手権の試合当日に体調を崩して欠場したため、ナショナルチームを除名され出場停止処分を受けている〔(興奮剤の使用を巡って西ドイツの体育協会とトラブルを起こし、出場停止になったともされている〔『THE WRESTLER BEST 1000』、P118。〕)。
その後1973年、ポール・バーガーのオファーを受けてプロレスラーに転向〔『Gスピリッツ Vol.21』、P5。〕。同年9月7日、ハンブルクにてアルゼンチン出身のオスカー・ラゴとデビュー戦を行い、反則負けを喫している〔。翌1974年は8月31日にミュンスターにてジョージ・ゴーディエンコシュートマッチを行い〔プロモーターのグスタル・カイザーが、ボックの実力を試すためにゴーディエンコにシュートを仕掛けさせたという。試合はボックが敗退したが、勝者のゴーディエンコは足首を骨折。以降、両者は互いの実力を認め合う親友となった(『Gスピリッツ Vol.21』、P7)。〕〔『Gスピリッツ Vol.21』、P7。〕、10月25日にはミュンヘンにてメキシコから遠征してきたミル・マスカラスに勝利〔。1978年4月8日にシュトゥットガルトで行われていたトーナメントでは、ダニー・リンチのラフ攻撃に逆上し、彼の足を折って引退に追い込んだともされている〔『THE WRESTLER BEST 1000』、P180。〕〔『Gスピリッツ Vol.22』、P69。〕。
西ドイツではプロモーター業も手掛け、1978年11月7日から29日にかけて開催されたアントニオ猪木の欧州遠征シリーズ "Inoki Europa Tournee 1978(イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978)" では選手として自ら猪木と戦いつつ、興行そのものを取り仕切っていた(ツアーにはスイスレネ・ラサルテスオーストリアオットー・ワンツといった当時の欧州各国のトップ選手をはじめ、1976年に猪木と異種格闘技戦を行ったオランダウィレム・ルスカもプロレスラーとして参加。アントン・ヘーシンクの出場も予定されていた〔『Gスピリッツ Vol.22』、P70。〕。ボックと同じドイツからは、モハメド・アリとの対戦経験を持つ元プロボクサーカール・ミルデンバーガーや、ローマオリンピック金メダリストのウィルフレッド・ディートリッヒも猪木の対戦相手として出場。アンダーカードの軽量級選手では、イギリスピート・ロバーツクロアチアミレ・ツルノなどが招聘された)。
このツアーではボックは猪木と3戦し、1勝(判定勝ち)1敗(反則負け)1分であったが、日本で放送されたのは3戦目となる11月25日のシュトゥットガルトにおける判定勝ちの試合であり、この際のボックの攻撃が尋常ではなかったことから「シュトゥットガルトの惨劇」とも称された〔『Gスピリッツ Vol.21』、P8。〕(猪木は11月8日のデュッセルドルフにおけるボックとの初戦でも、受身の取れない投げ方のフルネルソン・バスターで肩口からマットに落とされ、右肩を負傷していた〔『Gスピリッツ Vol.22』、P75。〕。現地のマットはオガクズを敷いた木の上にエプロンを貼っただけの硬く劣悪なもので、ツアーの日程も23日間で21試合という殺人的なスケジュールだったこともあり、猪木はシリーズを通して満身創痍のダメージを負った〔『Gスピリッツ Vol.22』、P80-81。〕)。なお、この試合は欧州代表のボックと日本代表の猪木とのダブルタイトル戦であり、勝者はアメリカ代表のブルーノ・サンマルチノと世界統一の最終決戦を行う予定だったという〔『Gスピリッツ Vol.22』、P80。〕。
ツアーの興行成績は惨敗に終わり、ボックが参与していた興行会社は倒産〔。莫大な負債を被ったボックは猪木のファイトマネーを全額支払うことができず、その埋め合わせとして翌1979年7月に日本で猪木と再戦することが決定していたが、自動車事故による怪我のため来日は急遽中止になっている〔『Gスピリッツ Vol.21』、P9。〕。同年12月16日、ジンデルフィンゲンにてアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦(6R無効試合)〔『Gスピリッツ Vol.23』、P78。〕。この試合でボックはアンドレにシュートを仕掛けスープレックスを放ったが〔試合は途中から手段を選ばない喧嘩まがいの展開となり、場外戦でボックが流血、その後も頭突き肘打ちパンチングの応酬が続きノーコンテストとなったが、アンドレはボックの戦い方に怒りが収まらず、試合後もボックの控室に殴り込んできたという(『Gスピリッツ Vol.23』、P78)。〕、アンドレのボディ・プレスを受けて左足を負傷し、心臓麻痺につながる血栓症を誘発〔〔。長期間の治療とリハビリテーションを要したため、この試合がドイツ国内における彼の最後の試合となった〔。
1981年夏、新日本プロレスへの初参戦(『サマー・ファイト・シリーズ』後半戦への特別参加)が実現。血栓症の治療中は一切のトレーニングが行えなかったこともあり、肉体的にもベスト・コンディションではなかったものの、木村健吾長州力ダブルアーム・スープレックスで一蹴し、センセーショナルな日本マット登場を果たした〔〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』、P16(2002年、日本スポーツ出版社)。〕。シリーズ中は猪木と対戦することはなかったが、最終戦の猪木対マスクド・スーパースター戦において、試合前にリング上で猪木との再戦をアピール。その際、ボックの握手を拒否したスーパースターと一触即発の状態になるという一幕も見られた。同年暮れの再来日(『第2回MSGタッグ・リーグ戦』終盤戦への特別参加)でもラッシャー木村タイガー戸口を短時間で下し、12月8日の蔵前国技館大会ではスタン・ハンセンとタッグを組んで猪木&藤波辰巳から勝利を収めている。シリーズ中は、バッドニュース・アレン&ワイルド・サモアン1号と組んでの6人タッグマッチにも出場した。
3度目の日本参戦となる1982年1月1日、後楽園ホールでのイベント『新春スーパー・ファイト』にてアントニオ猪木との約3年ぶりのシングルマッチがラウンド制で実現したが、血栓症の病状が悪化していたため往時のようなファイトは望めず、消化不良の試合に終わった(3R3分16秒、エプロン越しにスリーパー・ホールドをかけたボックがレフェリーの制止を無視して攻撃を続けたため反則負け)〔。
当時新日本プロレスが提唱していたIWGPへの欧州代表としての出場も予定されていたものの、この試合を最後にボックは引退。ドイツにて別事業に専念することとなったが、1978年のツアーの壊滅的な赤字による税金の未払いと、ツアーの資金調達に関係していた第3者の個人投資の損失のために有罪となり、懲役2年の判決を受ける〔『Gスピリッツ Vol.21』、P13。〕。個人資産や所有地をすべて失うも、1983年1月の収監から数カ月後には出獄が認められ、当時の妻名義のディスコ経営会社に勤務していた〔。
1991年タイに移住し、1993年より貿易業を開始したが、2002年に血栓症を再発〔。2003年よりドイツに帰国し、以降はシュトゥットガルトに居住して靴部品の販売会社を経営している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ローラン・ボック」の詳細全文を読む




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