翻訳と辞書
Words near each other
・ ローラシコード
・ ローラシーコード
・ ローラセコード
・ ローラセコール
・ ローラチャン
・ ローラット法
・ ローラドライブ
・ ローラン
・ ローラン (シャルルマーニュ伝説)
・ ローランの歌
ローランサン
・ ローランシア (小惑星)
・ ローランズ
・ ローラント・クラウス
・ ローラント・ケルネン
・ ローラント・コッホ
・ ローラント・フォン・エトヴェシュ
・ ローラント・フライスラー
・ ローラント・ボック
・ ローラント・ポファッラ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ローランサン : ミニ英和和英辞書
ローランサン[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ローランサン ( リダイレクト:マリー・ローランサン ) : ウィキペディア日本語版
マリー・ローランサン[らん]

マリー・ローランサンMarie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランス女性画家彫刻家である。
==生涯==

マリー・ローランサンは1883年パリで私生児として生まれた(ただし、資料によっては1885年生まれとなっている)。父はのちに代議士となったアルフレッド・トゥーレだが、マリーは彼が父親だということを長い間知らなかった。母はポーリーヌ・メラニー・ローランサン。ラマルティーヌ高校に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けた。1907年サロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソ詩人美術評論家ギヨーム・アポリネールと知り合った。
アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も冷めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作『ミラボー橋』であるという。
1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。1914年に31歳でドイツ人男爵(オットー・フォン・ベッチェン)と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。
パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となった。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。また、舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』や、オペラ=コミック座の『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズシャンゼリゼ劇場で上演されたローランド・プティのバレエなどが知られている。
第二次世界大戦の際はフランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。1954年、シュザンヌ・モローを正式に養女とする。1956年にパリにて心臓発作により死去した。72歳没。
離婚後はバイセクシャルでもあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マリー・ローランサン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marie Laurencin 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.