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ロジャーズ・レンジャーズ : ミニ英和和英辞書
ロジャーズ・レンジャーズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロジャーズ・レンジャーズ : ウィキペディア日本語版
ロジャーズ・レンジャーズ[ちょうおん]

ロジャーズ・レンジャーズ(Rogers' Rangers)は、フレンチ・インディアン戦争中の、イギリス軍直属のアメリカ植民地民兵による独立部隊である。この軍の訓練は、非公式に少佐ロバート・ロジャーズにゆだねられ、運動能力に優れた軽歩兵隊として、偵察と、距離のある相手を標的にした。ロジャーズ・レンジャーズの戦術は大胆かつ効果的なもので、1750年代の終わりには、イギリス本国軍の主たる偵察用部隊となった。敵の諜報収集に重用され、後に、この部隊の何人かの兵はアメリカ独立戦争に大きな影響を与える指導者となった。有名な隊員の中には、レキシントン・コンコードの戦いパトリオットの民兵として参戦した者もいる。
==レンジャーズの歴史==

===フレンチ・インディアン戦争===

アメリカ陸軍の歴史は、独立戦争よりも古い。1700年代の半ば、民兵隊大尉ベンジャミン・チャーチと、少佐のロバート・ロジャーズとがそれぞれ、フィリップ王戦争とフレンチ・インディアン戦争とでレンジャー部隊を編成した。ロジャーズは19条からなるロジャーズの原則を物し、今の時代にもその原則は受け継がれている〔Heritage - United States Army rangers - The United states Army - 〕。1755年ニューハンプシャーの民兵隊が正式に活動し、ロバート・ロジャーズは、第一中隊の隊長として大尉に就任し、中尉ジョン・ストークと共に隊員となる猟兵(レンジャー)を集めた〔Borneman, p.124〕。この連隊の軍服と帽子はは緑で統一されていた〔US Army Ranger Associtaion, Inc. - French and Indian War 〕。ロジャーズ・レンジャーズは、ニューヨーク植民地のジョージ湖シャンプラン湖周辺で主に活動し〔http://www.historynet.com/rogers-rangers-ice-capade.htm Rogers' Rangers Ice Capade〕、冬場に、かんじきをはいて結氷した川を渡り、フランスの入植地や砲台を襲撃した〔http://dmna.ny.gov/historic/articles/snowshoe.htm The Battle on Snowshoes - The New York State Military Museum]〕。この1757年のかんじきの戦いで、ロジャーズは一躍名を挙げた〔Borneman, p.125〕。イギリスの正規兵からは、特に敬意を受けてはいなかったが、この地域で活動する数少ない非インディアン組織であった。冬の酷寒と山の多い土地は条件としてはかなり厳しかった〔Louis Antoine de Bougainville, ''Adventures in the Wilderness''; Edward P. Hamilton, ed. and trans. (Norman, OK: University of Oklahoma Press, 1964)〕。
1757年1月21日、最初のかんじきの戦いで、ロジャーズの74人のレンジャーたちは、シャンプラン湖南部のカリヨン砦の近くで、7人のフランス兵を待ち伏せし、捕虜とした。また、約100人のフランス兵、カナダの民兵隊、そしてオハイオカントリーから来た兵と衝突し、死傷者を出したのち撤退した。報告書によれば、フランス軍は戦術面で不利な立場だった。彼らはかんじきをつけておらず、膝まで雪に埋もれて動きが取れなかったのだった〔。フランシス・パークマンによれば、レンジャーズの戦死者は14人、捕囚6人で、無傷で戻った者48人、負傷して戻った者が6人である。89人の正規兵、90人のカナダの民兵、そしてインディアンから成るフランス軍は37人が死傷した〔Parkman.pp.458-459 . The French/Indians casualties may have included one of the captured prisoners (one wounded and captured Ranger, who was later exchanged, claimed to have killed-or believed he had killed-one of the captured Frenchmen after the Rangers were ambushed by striking him on the head with a tomahawk). It is unclear if this was the fate of the other captured ones as well.〕。
1757年8月に、イギリス軍がフランスにウィリアム・ヘンリー砦を明け渡したのち、レンジャーズはニューヨークのエドワード砦の近くの、ロジャーズアイランドに駐留した。ここには多くの設備があり、天然痘の患者を収容する病院まであった。この地でレンジャーズは訓練を行った〔Fort William Henry in the French Indian War 〕〔HISTORY OF FORT EDWARD AND ROGERS ISLAND 〕。
1758年3月13日2度目のかんじきの戦いで、レンジャーズはフランスとインディアンの連合軍に相手に陣容を立て直すことができず、敵に挟み撃ちにされそうになり、ロジャーズは、高台へ退却するように命じた。この途中で50人の兵を失ったと、後にロジャーズは日誌に書いている。その後も苦戦を強いられたロジャーズは〔、将校の任命状が入った〔Lake George Historical Association - Roger's Slide 〕自分の軍服のコートを脱いで放った。それを後になって発見したフランス軍は、ロジャーズが死んだものと思い込んだ。しかしロジャーズは、その後撤退した。この時、山肌を滑って、結氷したジョージ湖の湖面にたどり着いたといわれている〔。この逸話にさしたる根拠はないが、その岩山は後に「ロジャーズ・スライド」(ロジャーズの滑り)またはロジャーズ・ロックとして知られるようになった〔Lake George Historical Association - Roger's Slide 〕。ロジャーズは生き残った52人のレンジャーズとぼつぼつとエドワード砦に戻った。そのうち8人は重傷だった。この戦闘で124人の兵士が戦死し、彼の従卒も退却中に引いた風邪がもとで死んだ〔。
ロジャーズの見積もりによると、この戦いでのフランス軍の戦死者は、最初の待ち伏せでフランス兵とインディアン兵が40人、その後の戦いで60人で、負傷者は千人を下らないとしている。しかし、エベクール大尉モンカルム将軍に提出した報告書では、インディアン兵8人が戦死、17人のインディアン兵が負傷してうち2名がそのため死亡、そしてカナダ兵の負傷が3人となっている 〔。
ロジャーズ・レンジャーズはカリヨンの戦いで、ジョージ・ハウの命を受けて、偵察とシャンプラン湖測量の任務に就いた〔Boeneman, p.130〕。しかしハウが戦死し、カリヨン砦での戦闘においては、トマス・ゲイジのと共に、イギリス陣のへりに当たる部分で、フランス兵を相手防御の背後へ押し戻した〔http://www.cliomusings.com/2011/08/french-and-indian-war-battle-of.htmlClio's Lessons: Frencha and Indian War - Battle of Carillon〕。
1758年8月8日、ニューヨークのクラウンポイントの近くで、レンジャーズと軽歩兵隊、そして民兵とが、フランス軍の大尉マリン率いる、カナダ人とインディアンの450人部隊に待ち伏せされた。この襲撃で、レンジャーズ少佐のイスラエル・パットナムが捕囚された。歴史家フランシス・パークマンによれば、イギリス兵49人が死んで、フランス軍が100人以上を殺したとなっている。しかし他の資料によれば、フランス軍の犠牲者は、4人のインディアン兵と6人のカナダ兵が戦死、そして4人のインディアン兵と、士官や士官候補生を含む6人のカナダ兵が負傷したとしている〔Indiana Archives, p. 122 〕。
1759年9月13日、ロジャーズは、ジェフリー・アマーストから、ケベックサンフランソワ・ド・リュクにある、アベナキ族の集落を破壊するよう極秘の命令を受けた、この集落は、フランスびいきな場所であった。レンジャーズには、アベナキ族に家族や友人を殺された兵士も多かったため、報復の意味もあり、ロジャーズは190人に及ぶ部隊を率いてクラウンポイントを発ち、サンフランソワへと向かった。1759年10月4日未明の攻撃と集落破壊の後、ロジャーズ・レンジャーズは、サンフランソワ川の東を通って撤退したが、その撤退中に、アベナキ族の集落から持ち出したトウモロコシも底をつき、食糧を得ようと苦心した挙句、ロジャーズはコネチカット川カヌーナンバーフォー砦まで下り、何隻ものカヌーに物資を積んで戻ってきた〔Borneman, pp.227-232〕。
このサンフランソワの襲撃では、ロジャーズは200人を殺し、20人の女子供を捕虜にすべく残しておいたが〔"Francis Parkman".pp.266 〕。そのうち捕虜にしたのは子供5人で、他はその場を立ち去らせたと主張した。フランスの記録では殺されたのは30人のみで、うち20人が女子供であったとしている〔Roger's Raid according to the research of Gordon Day 〕。フランシス・パークマンによれば、この襲撃でレンジャーズの兵士1人が戦死、6人が負傷したが、退却の間に、レンジャーズの分隊の一つから5人が捕囚され、また別の、約20人の分隊ではほぼ全員が殺され、または捕囚されたとしている〔"Francis Parkman".pp.266-267 〕。
また襲撃に加わった142人のうち、69人が死んだともいわれる〔Borneman, p.232〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロジャーズ・レンジャーズ」の詳細全文を読む




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