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レシュノ : ウィキペディア日本語版
レシュノ

(、)は、ポーランド中部の町。ドイツ名リッサ(、1800年から1918年まではポルニシュ・リッサ (Polnisch Lissa) とも)。人口6万3955人(2008年)。1998年までレシュノ県の県都であったが、1999年にヴィエルコポルスカ県の所属となった。
== 歴史 ==

レシュノが初めて記録に現れるのは、1393年のことである。当時、この村はヴィエニアヴァ氏族のステファン・ズ・カルニナの所領であった。中世ポーランド貴族の慣習にしたがい、一族は姓を地名に由来するレシュチニスキに変えた。
1473年から神聖ローマ帝国の伯爵位にあり、カルヴァン派に改宗していたレシュチニスキ家は16世紀初頭、ボヘミアを逃れて難民となっていたプロテスタントの共同体「同胞の団結」をレシュノに落ち着かせた。ボヘミアのプロテスタントだけでなく、近くのシレジアからやってきた織物職人も発展に寄与し、1547年にジグムント1世から特権を得て町となることができた。プロテスタント系コミュニティの活動のおかげで、レシュノは大ポーランドの印刷業の中心地ともなった。三十年戦争でシレジアからドイツ人避難民が流入したため、その人口はさらに増えた。当時、町ではボヘミアの教育家で「同胞の団結」の牧師をしていたヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス)がギムナジウムを開設していた。ドイツの詩人ヨハン・ヘールマンは、1638年から1647年に亡くなるまで当地に住んだ。1636年から1639年にかけて、町は防衛力を強化し市域を拡張した。1655年に大火が発生して、レシュノの黄金時代は終わった。大北方戦争中の1707年にはロシアに焼き討ちされ、1709年には疫病が流行した。1738年、2度目の王位を放棄したスタニスワフ・レシチニスキは町を売却し、レシュチニスキ家の支配に幕が下ろされた。
1793年の第二次ポーランド分割で、レシュノはプロイセン王国に併合され、リッサとしてポーゼン州に編入された。1918年から翌年にポーランド大反乱が起きるとそれに加わり、ヴェルサイユ条約によって1920年1月17日にポーランド第二共和国に復帰した。地元住民はポーランドの市民権を取得しなければならなかった。1939年、町はナチス・ドイツに占領された。ポーランド人はポーランド総督府へ再定住することを強いられた。町の大半のユダヤ人(レシュノに関係のあるユダヤ人にはレオ・ベックやリッサのヤーコプといった有名なラビのほか、ポーランド系ユダヤ人作家のルートヴィヒ・カリシュがいた)と残ったポーランド人は、ナチスのアインザッツグルッペンに虐殺された。ナチス・ドイツが壊滅した1945年、町は再びポーランドに復帰した。戦後は急速に開発され、1975年から1998年には県庁が置かれた。2000年には、欧州委員会から「姉妹都市の金星」賞を受賞した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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