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リンカーン・ダグラス論争 : ミニ英和和英辞書
リンカーン・ダグラス論争[りんかーん だぐらすろんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ろん]
 【名詞】 1. (1) argument 2. discussion 3. dispute 4. controversy 5. discourse 6. debate 7. (2) theory 8. doctrine 9. (3) essay 10. treatise 1 1. comment
論争 : [ろんそう]
  1. (n,vs) controversy 2. dispute 

リンカーン・ダグラス論争 : ウィキペディア日本語版
リンカーン・ダグラス論争[りんかーん だぐらすろんそう]

リンカーン・ダグラス論争(リンカーン・ダグラスろんそう、)は、1858年エイブラハム・リンカーンスティーブン・ダグラスとの間に行われた7回にわたる討論会で行われた論争である。リンカーンはイリノイ州選出アメリカ合衆国上院議員の共和党候補であり、ダグラスは現職上院議員で民主党から再選を求めて出馬していた。リンカーンとダグラスはイリノイ州議会をそれぞれの党が支配できることも求めていた。この論争は、リンカーンが1860年アメリカ合衆国大統領選挙で当選したあとに直面することになる問題を浮き彫りにしていた。7回の討論で議論された主論点は奴隷制度だった。
リンカーンとダグラスはイリノイ州の下院議員選挙区9区のそれぞれで各1回の討論を行うことに決めた。両者は既にスプリングフィールドシカゴで演説していたので、二人が共に登壇する機会は残りの7選挙区で行うことになった。
討論会は1858年8月21日にオタワ、27日にフリーポート、9月15日にジョーンズボロ、18日にチャールストン、10月7日にゲイルズバーグ、13日にクインシー、15日にオールトンというスケジュールで開催された。
フリーポート、クインシーおよびオールトンでの討論会は特に近隣の州からも大勢の聴衆を呼んだ。これは奴隷制度問題が国中の市民にとって非常に大きな重要性を持っていたからだった〔Nevins, Fruits of Manifest Destiny, 1847–1852, page 163 — "As the fifties wore on, an exhaustive, exacerbating and essentially futile conflict over slavery raged to the exclusion of nearly all other topics."〕〔Abraham Lincoln, Speech at New Haven, Conn., March 6, 1860 — "This question of Slavery was more important than any other; indeed, so much more important has it become that no other national question can even get a hearing just at present."〕。この討論に関する新聞の報道は過熱していた。シカゴの主要紙はそれぞれの討論の全文を収録するために速記者を派遣し、その記事を全国の新聞が多少の党派的編集を加えて全文転載した。ダグラスを支持する新聞は、ダグラスの原稿から速記者が犯した誤りを除去し、文法的な誤りを訂正したが、リンカーンの原稿は転載したままのラフな形態のままとしていた。同様に共和党系の新聞はリンカーンの原稿を編集し、ダグラスの原稿は当初に掲載されたままとした。
リンカーンはイリノイ州選出アメリカ合衆国上院議員選挙で落選した後、討論の全原稿を編集して本にして出版させた。元々の討論が広く報道されたことと、出版した本の売れ行きが良かったことは、1860年にシカゴで開催された共和党全国大会でリンカーンが大統領候補者に指名される要因になった。
討論のやり方は最初の候補者が60分間話し、続いてもう一方の候補者が90分間話す。最後に最初の候補者が30分間の再答弁を行う方式だった。最初に話す者は毎回交替して行った。現職上院議員だったダグラスが計4回の第一話者になった。
== 背景 ==
この論争の前に、リンカーンは、ダグラスが人種の融合に関する恐れを唱道し、数多い人々を共和党から離れさせることに成功していると語っていた〔Abraham Lincoln, Notes for Speech at Chicago, February 28, 1857〕。ダグラスは特に民主党に対して、リンカーンはアメリカ独立宣言が白人と同様に黒人にも適用されると言っているので、奴隷制度廃止論者であることを納得させようとしていた。リンカーンは、「愛国者と自由を愛する者の心を結びつける電線」を自明の真実と呼んでいた。
リンカーンはその「」で、ダグラスは奴隷制度を全国的なものにする陰謀に加担していると論じた。カンザスネブラスカでの奴隷制度を禁じていたはずのミズーリ妥協カンザス・ネブラスカ法によって終わらせたことは、その方向に進む第1ステップであり、「ドレッド・スコット対サンフォード事件」判決は北部州に奴隷制度を広げるための第2ステップだと語っていた。リンカーンは、ドレッド・スコット判決のようなものが繰り返されればイリノイ州を奴隷州にしてしまうという恐れを表明した〔David Herbert Donald, Lincoln, pages 206–210〕。
リンカーンもダグラスも反対意見を受けた。リンカーンは元ホイッグ党員だったが、著名なホイッグ党員だった判事は、リンカーンがあまりに奴隷制度廃止論者に近付き過ぎていると言って、ダグラスを支持した。民主党のジェームズ・ブキャナン大統領は、ダグラスがカンザス準州のを廃案にしたことでダグラスに反対し、ダグラスに票を投じさせないために競合する全国民主党を立ち上げた〔David Herbert Donald, Lincoln, pages 212–213〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リンカーン・ダグラス論争」の詳細全文を読む




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