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ドレッド・スコット対サンフォード事件 : ミニ英和和英辞書
ドレッド・スコット対サンフォード事件[どれっどすこっとたいさんふぉーどじけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つい]
 【名詞】 1. pair 2. couple 3. set 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

ドレッド・スコット対サンフォード事件 : ウィキペディア日本語版
ドレッド・スコット対サンフォード事件[どれっどすこっとたいさんふぉーどじけん]

ドレッド・スコット対サンフォード事件(英:Dred Scott v. Sandford、またはDred Scott Case、またはDred Scott Decision)は、1857年にアメリカ合衆国最高裁判所で判決が下された、アメリカ合衆国の歴史の中でも転換点となった事件である。この判決は、アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした。判決主文は最高裁長官のロジャー・トーニーによって書かれた。
この判決は、いわゆる「血を流すカンザス」紛争の「」〔Border Ruffian(s):直訳では「境界の悪漢」〕側の肩を持ったことになった。ボーダー・ラフィアンズたちはカンザスが自由州になるとミズーリ州からの逃亡奴隷にとって天国になることを恐れていた。判決は奴隷制度廃止運動家を激怒させた。奴隷制に関する論議を二極化することは南北戦争に導く大きな要因になったと考えられている。1850年は逃亡奴隷取締法が罰則付きで強化された年であり、奴隷制に関する対立は激化していた。
この判決の一部は、アフリカ系アメリカ人の市民権と諸権利を扱っているが、後にアメリカ合衆国憲法修正第13条第14条で覆されることになった。
== 背景 ==
は奴隷として生まれた男であり、アメリカ陸軍のジョン・エマーソン少佐が1833年頃に購入した。元の所有者はピーター・ブロウであり、恐らくスコットの生まれた1795年以来、少なくとも1818年以降は所有していた。エマーソンはイリノイ州アームストロング砦で3年間従軍していた。イリノイ州は自由州であり、スコットはイリノイ州憲法の下で解放される資格があった。1836年、エマーソンは当時のウィスコンシン準州、現在のミネソタ州に引っ越したが、ここもミズーリ妥協とウィスコンシン州権限付与法の下で自由領土であった。スコットはそこにいる間に奴隷のハリエット・ロビンソンに出会って結婚した。結婚は法律的に契約を結ぶことであり、南部では奴隷にその権利は無かった。
1837年10月、エマーソンはミズーリ州セントルイスに移動することになったが、スコットとその妻を賃貸にして数ヶ月間ミネソタに残しておいた。スコットを賃貸にするということは奴隷制を意味し、明らかにミズーリ協定とウィスコンシン州権限付与法および北西部条例の下では違法であった。
11月、エマーソンはルイジアナ州ジェサップ砦に転属となった。翌年の2月、エマーソンはイレーヌ・マリー・サンフォードと結婚し、スコット夫妻をミネソタから呼びつけた。スコット夫妻はエマーソンとその家族に従って最初はセントルイスに、続いてスネリング砦に移動し、1840年5月までそこに留まった。その旅行中に自由州の境界をなす川の近くで、スコットの最初の子供エリザ・スコットが生まれた。1840年5月、エマーソンはフロリダ準州でのセミノール戦争に駆り出され、その妻と奴隷達をセントルイスに残して行った。エマーソンは戦争から帰還すると、自由領土であるアイオワ準州へ移動したが、スコット夫妻を再び賃貸にしてセントルイスに残した。1843年12月、エマーソンは40歳で不慮の死を遂げた。スコットとその家族はイレーヌ・エマーソンの指図で次の3年間賃貸された奴隷として働いた。1846年2月、スコットはイレーヌから自分達の自由を購おうとしたが、イレーヌが拒否した。
1846年4月、スコットは解放を求めて告訴した。その根拠はスコットが自由州と自由準州に居住し法的に自由になったこと、およびその後では奴隷に戻されるはずがないということであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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