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血を流すカンザス : ミニ英和和英辞書
血を流すカンザス[ちをながすかんざす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けつ, ち]
 【名詞】 1. blood 2. consanguinity 
: [りゅう]
  1. (n,n-suf) style of 2. method of 3. manner of 4. school (of thought) 
流す : [ながす]
  1. (v5s) to drain 2. to float 3. to shed (blood, tears) 4. to cruise (e.g., taxi) 

血を流すカンザス : ウィキペディア日本語版
血を流すカンザス[ちをながすかんざす]

血を流すカンザス (ちをながすカンザス、、あるいは流血のカンザス、あるいは境界戦争)は、1854年から1861年アメリカ合衆国カンザス準州および隣接するミズーリ州の町で起こった、政治がからむ一連の暴力的衝突である。対峙したのは自由州からカンザス準州に来た反奴隷制度を掲げる集団と、「」(境界を越えた暴漢)と呼ばれる隣接するミズーリ州から入ってきた奴隷制度擁護派の集団だった。この衝突の中心的な原因は、カンザスが自由州としてアメリカ合衆国に加入するか、奴隷州として加入するかという問題だった。この衝突は奴隷制度に関する北部南部代理戦争となった。「血を流すカンザス」という言葉は「」紙のホレス・グリーリーが初めて使ったとされている〔U-S-History.com. 〕。この衝突がもたらした結果は直接南北戦争の前兆となった。
それまでのアメリカ合衆国は、奴隷所有者の利益と奴隷制度廃止運動家の抗議との平衡を取るためにもがいていた。血を流すカンザスが起きるきっかけは1854年に定められたカンザス・ネブラスカ法であり、これで1820年のミズーリ妥協を無効にし、住民主権の考え方を取り入れていた。住民主権は見かけ上民主主義的であり、各準州の住人が自由州を選ぶか奴隷州を選ぶかを決められるというものだった。しかし、結果としては両側の活動家が大挙して準州内に移住してくることになった。ある時点では、カンザス準州内に2つの政府ができ、それぞれが独自の憲法を持つことになったが、そのうちの1つだけが連邦政府に認知された。1861年1月29日、カンザスは自由州としてアメリカ合衆国への加入を認められた。それは南北戦争の始まりとなったサムター要塞の戦いが起きる3か月足らず前のことだった。
== 原因 ==

アメリカ合衆国南部の文化に深く根付いていた奴隷制度の問題は、建国の時から意見が分かれて来ていた。アメリカ合衆国憲法は奴隷制度が保たれなければ批准されなかった可能性が強い。憲法には5分の3条項があり、アメリカ合衆国下院議員の各州定数を決める根拠として、州人口に州内奴隷人口の5分の3が加算されていた。これは奴隷州と自由州の利益のバランスを取るためのものだった。国が拡大し、新しい州を自由州として受け容れるか、奴隷州として受け容れるかという問題が生じたときに、奴隷制度に関する議論が大きくなり、どちらの方向に進むにしても権力の脆弱なバランスを崩す恐れがあった。1820年のミズーリ妥協はこのバランスを保つために行われた。後の1850年妥協は同じような目的で行われたが、国全体が内乱に突入する瀬戸際であり続けた。
1854年のカンザス・ネブラスカ法は、カンザス準州ネブラスカ準州を創設し、アメリカ人開拓者に土地を開放することになった。この法は、2つの準州が州に昇格するときに、奴隷制度を認めるか否かを住民に決定させるという取り決めも行っており、実質的にミズーリ妥協を撤廃するものだった。この住民に決めさせるという概念は現在「住民主権」と呼ばれ、アメリカ合衆国上院議員で、上院領土問題医委員会委員長を務めていたスティーブン・ダグラスが提唱したものだった。住民主権は、西部や北部の新領土に奴隷制度を拡大できる可能性を与えるものであり、南部州に譲歩する試みだった。この原則は、カンザス準州内で「無断居住者主権」とも呼ばれ、ルイス・カス上院議員によって実行を阻まれた。カスはそれにも拘わらず、「ワシントン・デイリー・ユニオン」に掲載された文書でそれに理論的な構造を与えることで「住民主権の父」という呼称を貰った。さらにカスは1848年に民主党の大統領候補にも指名されることにもなった。
当初、カンザス準州に入って来てそこを奴隷州にする奴隷所有者は少ないと思われていた。これは奴隷を活用して利益を出すにはあまりに北方にあると考えられたからだった。しかし、ミズーリ川に沿ったカンザス準州東部は、隣接して対岸にあるミズーリ州の「ブラックベルト」と同様に、奴隷を使用する農業に適していた。ミズーリ州のその地帯では州内奴隷の大半が働いていた。
カンザス準州に州政府を作り、そこをどのような州にするかという問題は、その境界を越えて高度に政治的なものになった。これに多くの理由があった。奴隷州であるミズーリ州は、その北にアイオワ州、東にイリノイ州という自由州に接するという奴隷州としては他に無いような所に位置していた。州内の大半に奴隷がおらず、奴隷所有者数は州人口に比べるとかなり少ないものだった。カンザスが自由州としてアメリカ合衆国に加入すると、ミズーリ州は3方を自由州に囲まれることになるはずだった。奴隷州と自由州の境界にあたる州では、奴隷解放、奴隷制度廃止運動および奴隷の逃亡が当たり前のように起こっていたので、側に自由州があることはミズーリ州の奴隷所有者にとって脅威だった。
アメリカ合衆国上院では各州に2人の議員が割り当てられることになっている。当時奴隷州の数と自由州の数が拮抗していたので、1つの州を加えることはそのバランスを崩し、奴隷州の既得権益を阻害する恐れがあった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「血を流すカンザス」の詳細全文を読む




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