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ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール : ミニ英和和英辞書
ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール : ウィキペディア日本語版
ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール[ちょうおん]

ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール(、Ya'qub ibn al-Layth al-SaffarまたはYa'qub-i Laith Saffari、840年10月25日 - 879年6月5日)は、イラン南東部の地方に存在していたサッファール朝の建国者。名前の「サッファール」はアラビア語で「銅細工師」を意味する〔佐藤圭四郎「サーマーン朝」『アジア歴史事典』4巻収録(平凡社, 1960年)、45-46頁〕〔清水宏祐「イラン世界の変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、72-73頁〕。ペルシアの一平民であるヤアクーブの即位はアッバース朝から忌み嫌われ、アッバース家のカリフたちとターヒル家をはじめとするアラブ世界の貴族たちはヤアクーブを蔑視していた〔''Ya'kub b. al-Layth al Saffar'', C.E. Bosworth, The Encyclopaedia of Islam, Vol. XI, p 255〕。そして、おそらくはヤアクーブの側もバグダードのアラブ人支配者や、貴族的なイランの総督を嫌悪していた〔ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』(前田耕作、山内和也監訳, 世界歴史叢書, 明石書店, 2005年4月)、292-293頁〕。
ヤアクーブの支配はイランとアフガニスタンに相当する地域だけでなく、パキスタン西部とイラクの一部に及んだ。ヤアクーブの死後、彼の立てた政権は弟のアムル・イブン・アル=ライスが継承した。
イランでは歴史的英雄の1人として人気が高く、ヤアクーブにまつわる多くの伝説が存在する〔デニスン・ロス、ヘンリ・スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』(三橋冨治男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1976年)、136-138頁〕。民間伝承では、ヤアクーブは裕福な人々から盗みを働いて貧しい人々を助ける、イギリスロビン・フッドのような義賊として語られている〔。
== 生涯 ==

=== 若年期 ===
840年、現在のアフガニスタンのの東・ボスト(ラシュカルガー)の西に位置する、Karnin(Qarnin)と呼ばれる小さな町でヤアクーブは生まれる。しかし、ヤアクーブの出身家系と一族の経歴についての情報は少ない。スンナ派イスラム教徒が著した史料の多くはヤアクーブについて悪意を込めた記述をしているが、東洋史研究家のは、ヤアクーブがアッバース朝のカリフに敵対していたことに起因すると考えている〔Bosworth, ''The Armies of the Saffarids,'' pp. 536, 541 〕。いくつかの史料はヤアクーブがハワーリジュ派に属することを非難しており、13世紀の神学者は彼をキリスト教徒と見なし、またセルジューク朝の宰相ニザームルムルクはヤークーブがイスマーイール派に転向したと述べた〔Siyasat-nama, translated by H. Darke (New Haven 1960), p. 15.〕。しかし、これらの悪意のある記述にもかかわらず、多くの史料はヤアクーブが質素な生活を送っていたことを一致して記している。
ヤアクーブの父のライスは銅細工師であり、ヤアクーブは父から職人としての技術を学んでいた〔。ヤアクーブの家族は窮乏した生活を送り、貧困のためにパンとタマネギしか口にできないこともあった。貧困、スンナ派とハワーリジュ派の間に起きる衝突のため、ヤアクーブと彼の家族はザランジに移住した。一家は新たな土地に住み着いたものの、たどり着く前にヤアクーブは父のライスを亡くしており、ヤアクーブは銅細工師、彼の兄弟のアムルはラバ飼いとして生計を立てることになる。しかし、ヤアクーブが実際に銅細工師の職に従事していたかについては、研究者の間で諸説分かれている〔。ヤアクーブは銅細工師からアイヤール(イラン世界における任侠の徒)となり、やがて盗賊・街道強盗に手を染める〔。11世紀のイランの歴史家ガルディーズィーは、ヤアクーブを「男気と機知にあふれ、周囲に集まった人間から敬慕される、どのような職に就いても同業者の長となる」アイヤールの理想像を体現する人物として記した〔。盗賊稼業で発揮されたヤアクーブの勇気と手腕はスィースターンの知事の見込むところとなり、知事は彼に軍の指揮を委ねる〔フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』下(講談社学術文庫, 講談社, 1983年1月)、232頁〕。
スィースターンの知事サリー・イブン・ナスルはハワーリジュ派の討伐を名目にアッバース朝から独立した政権を建てており、アッバース朝からスィースターン平定の命令を受けたホラーサーン地方のターヒル朝からの攻撃を受けていた〔。この時、ヤアクーブもターヒル朝との戦闘に参加しており〔、ハワーリジュ派と戦う現地のスンナ派の人間から支持を受けていた〔。861年4月から、ヤアクーブは「スィースターンのアミール(司令官)」の称号を自ら名乗るようになる〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール」の詳細全文を読む




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