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ヤアーリバ朝 : ミニ英和和英辞書
ヤアーリバ朝[あさ, ちょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

ヤアーリバ朝 : ウィキペディア日本語版
ヤアーリバ朝[あさ, ちょう]
ヤアーリバ朝(Yaruba/Ya'Aruba/Ya'arubi dynasty)とは、1624年から1720年までの間オマーンを支配した王朝で、イマームの称号を保有する君主によって統治されていた。
ヤアーリバ朝はマスカット沿岸部の城砦を占領していたポルトガル勢力を追放し、統一された国家を創建した。ヤアーリバ朝の支配下のオマーンは農業技術が向上と貿易の拡大が進み、主要な海洋国家の地位を築き上げた。オマーンの軍隊はモザンビーク以北の東アフリカ沿岸部からポルトガルを放逐し、オマーンによってザンジバルモンバサなどのスワヒリ海岸の各地に設置された植民都市は長期にわたって存続する。1720年から始まるイマームの地位を巡る内訌によってヤアーリバ朝は崩壊した。
== 歴史 ==

=== 背景 ===
オマーンは伝統的に農耕に不適で人口の少ない内陸部と人口の多い沿岸部に分かれている。内陸部には時折小規模の政権が現れたが、支配を内陸部全土に及ぼす強力な政権は現れず、居住する諸部族が互いに争う状態が続いていた。内陸部の部族の間ではスンナ派シーア派の教えとは大きく離れたイバード派が信仰されている。沿岸部、特にマスカット周辺の北東部の海岸地帯は古くからメソポタミアやペルシアと繋がりを持っていた。
イスラーム時代の初期、内陸部の諸部族は精神世界と世俗の権力を兼ね備えたイマーム(イスラームの宗教指導者)の指導下に入っていた。9世紀に入ってアズド族の支族であるYahmadが勢力を増し、彼らによって内陸部のニザール族の中で最大の勢力を持つバヌー・サマ家のウラマー(イスラーム世界の知識人)からイマームを選出する制度が確立された。やがて権力闘争によってイマームの権威は失われ、1154年に成立したナブハーニ朝の君主が実権を握り、イマームは象徴的な存在へと変化する。イマームの称号は支配層の部族の所有物として扱われるようになり、わずかながら精神世界での権威を有していた。
1507年にマスカットがポルトガルによって占領される。ポルトガルはオマーンの海岸線に沿って徐々に支配を拡大し、北のソハールから南東のスールに至る地域を支配した。1560年、ナブハーニ朝は滅亡を迎える。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヤアーリバ朝」の詳細全文を読む




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