翻訳と辞書
Words near each other
・ モンテサーノ・サレンティーノ
・ モンテサーノ・スッラ・マルチェッラーナ
・ モンテザーノ・スッラ・マルチェッラーナ
・ モンテジャルディーノ
・ モンテジョルジョ
・ モンテジョルダーノ
・ モンテジョーコ
・ モンテジルヴァーノ
・ モンテスカリオーゾ
・ モンテスカーノ
モンテスキュー
・ モンテスキュー (ロット=エ=ガロンヌ県)
・ モンテスキュー (曖昧さ回避)
・ モンテスキュー・デ・ザルベール
・ モンテスキュー=デザルベール
・ モンテスキュー=デ=ザルベール
・ モンテスクダーイオ
・ モンテスクード
・ モンテスケーノ
・ モンテスパン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

モンテスキュー ( リダイレクト:シャルル・ド・モンテスキュー ) : ウィキペディア日本語版
シャルル・ド・モンテスキュー[ちょうおん]

シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu、1689年1月18日 - 1755年2月10日)は、フランス哲学者である。本名は、シャルル=ルイ・ド・スゴンダ(Charles-Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu)で、ラ・ブレードLa Brède)とモンテスキュー(Montesquieu)を領地とする男爵(baron)でもあった。
== 生涯 ==
フランス南西部にあるボルドー近郊で生まれた。彼が7歳の時、母が逝去。母の遺産を継承し、ラ・ブレード男爵となる。ボルドー大学法学部卒業後、1709年からパリに遊学。1713年末、父の訃報により帰郷する。翌年、25歳でボルドー高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継承する。しかし、実務面には無関心で、1721年には、匿名で『』を出版。1726年、37歳で、ボルドー高等法学院副院長の官職を辞職。以後、学究生活に入る。1728年1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、4月から諸国遍歴の旅に出る。1731年に祖国であるフランスに帰国。1734年、『ローマ人盛衰原因論』、1748年、『法の精神』を出版。
イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。なお、イギリス滞在の間にフリーメーソンとなった。
とは、「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは、政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたと言われる自身の著作『法の精神』の中で、政治権力を立法行政司法に三分割する三権分立論を提唱した。
晩年は、視力の減退に悩まされた。そんな中、著作『百科全書』の為に「趣味論」の執筆に取り組んだが、完成することは無く1755年2月10日にパリで逝去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シャルル・ド・モンテスキュー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Montesquieu 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.