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ミールザー・ムハンマド・ハイダル : ミニ英和和英辞書
ミールザー・ムハンマド・ハイダル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ミールザー・ムハンマド・ハイダル ( リダイレクト:ミールザー・ハイダル・ドゥグラト ) : ウィキペディア日本語版
ミールザー・ハイダル・ドゥグラト[ちょうおん]

ミールザー・ムハンマド・ハイダル・ドゥグラト(Mirza Muhammad Haidar Dughlat Beg, 1499年/1500年 - 1551年)は、モグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の貴族歴史家テュルク系のドゥグラト部の出身でムガル帝国の創始者バーブルの従弟にあたる。著作の『ターリーヒ・ラシーディー』は14世紀から16世紀にかけての中央アジア史、特にモグーリスタン・ハン国史についての重要な史料で〔濱田「ターリーヒ・ラシーディー」『中央ユーラシアを知る事典』、327-328頁〕、バーブルの著書『バーブル・ナーマ』に比肩する歴史書として評価されている〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、97頁〕。
== 生涯 ==

ヒジュラ暦905年(1499年/1500年)に父のムハンマド・フサインの領地であるタシュケント近郊のウラ・テペでハイダルは誕生する〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、105,108,126頁〕。
1503年にハイダルと彼の姉妹はヒサールのホスロウ・シャーフに捕らえられ、1年をクンドゥズで過ごした。翌1504年にクンドゥズはウズベク国家のシャイバーニー朝に征服され、ハイダルはシャイバーニー朝の客将となっていたムハンマド・フサインと再会した。ハイダルはメッカ巡礼を望むムハンマド・フサインに連れられて父の領地のシャフリサブスを発ち、1505年に親密な交流があったカーブルバーブルの元を訪れる〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、111-112頁〕。1506年にムハンマド・フサインはホラーサーン地方に向かったバーブルからカーブルの留守を任されるが、ハイダル、バーブルの義理の祖母であるシャーフ・ベギムがバーブルに対して起こした反乱に参加する〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、112-115頁〕。反乱が失敗に終わった後、バーブルに罪を許されたムハンマド・フサインはハイダルを伴ってホラーサーン地方に向かった。1507年ヘラートのティムール朝がシャイバーニー朝によって滅ぼされた後、ムハンマド・フサインはムハンマド・シャイバーニー・ハンに招かれてウズベクの宮廷を訪れ、ハイダルは義兄にあたるウバイドゥッラーと共にブハラに移った〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、116頁〕。ムハンマド・シャイバーニーはムハンマド・フサインがモグーリスタンのマフムード・ハンと合流することを恐れ、1508年にマフムード、ムハンマド・フサインの二人を暗殺する〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、117頁〕。
父が暗殺された後、ハイダルはブハラを脱出し、ヒジュラ暦913年(1507年/08年)にバダフシャーンを支配するティムール朝の王族ミールザー・ハンの保護を受けた。1509年にミールザー・ハンはバーブルの要請に応じて、ハイダルと16人の従者をカーブルに送り出したが、ハイダル、ミールザー・ハンのどちらも窮乏した状態にあったため、出立に際して十分な用意が整えられなかったという〔。カーブルに到着したハイダルは手厚いもてなしを受け、『ターリーヒ・ラシーディー』では常にバーブルが自分を側に置いていたこと、表向きはバーブルの兄弟や甥と同列に扱われていたが陰では息子に接するような態度をとっていたことを回想している〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、118-119頁〕。1510年末からバーブルが実施したシャイバーニー朝に対する軍事活動にハイダルも従軍し、ハイダルはモグール兵を率いてブハラ、サマルカンド攻撃に参加するが、バーブルは彼の身に注意を払っていた〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、119-120頁〕。1512年にバーブルがキョリ・マリクの戦いでウバイドゥッラーが率いるウズベク軍との戦闘に敗れた後、ハイダルはバーブルとともにヒサールに退却する。ヒサールに到着したバーブルの元に、アンディジャンを本拠とするモグーリスタンのスルターン・サイード・ハンからハイダルを自分の元に派遣するように求める使者が何度も送られ、ハイダルはサイードの元に送り出された〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、121頁〕。
ハイダルはスルタン・サイードのカシュガルヤルカンド遠征に参加し、勢力を回復したモグーリスタン・ハン国(ヤルカンド・ハン国)の重職に就いた〔羽田「ハイダル・ミールザー」『アジア歴史事典』7巻、319頁〕。ハイダルはサイードの命令を受けてバダフシャーン、ヌーリスターンなどの土地に遠征を行った〔。1531年には聖戦(ジハード)のためラダック遠征を指揮するが〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、795頁〕、チベット攻撃は失敗に終わった。1533年にハイダルはサイードの代理としてカシミール地方に遠征を行った。しかし、ハイダルはカシミールに長く留まらず、現地の支配者と条約を締結し、スルターン・サイードの名前が刻まれた貨幣を鋳造した。
サイードが没した後、跡を継いだアブドゥッラシードは強大な力を有するドゥグラト部と対立し、ハイダルの叔父サイイド・ムハンマド・ミールザーを処刑する〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、796頁〕。ハイダルはモグーリスタンを追われ、これまで敵対していたバダフシャーンに亡命する〔。1537年にハイダルはカーブルを訪れ、ラーホールに駐屯していたバーブルの次男カームラーンの保護を受ける〔間野「バーブル・パーディシャーフとハイダル・ミールザー」『東洋史研究』46巻3号、122頁〕。1539年にハイダルはバーブルの長子であるムガル皇帝フマーユーンに身を寄せ〔、1540年カナウジの戦いでバーブルの長子であるムガル皇帝フマーユーンは敗北を喫するが、この戦闘ではドゥグラト部もフマーユーンの側についていた。同1540年にハイダルはフマーユーンを援護するため、カシミールに帰還する〔Shahzad Bashir, ''Messianic Hopes and Mystical Visions: The Nurbakhshiya Between Medieval And Modern Islam'' (2003), p. 236.〕。この地の支配権を巡って争いを続けていた土着勢力の一つがハイダルを招き入れ、カシミールに到着したハイダルはサイイド派の指導者ナズクをスルターンに擁立した。1541年にハイダルはカシミールを征服し、事実上の独立国家を形成した〔。フマーユーンがカーブルを奪回した後、1546年にハイダルはナズクを廃位し、ムガル皇帝の名前が刻まれた貨幣を発行する〔Stan Goron and J.P. Goenka: ''The Coins of the Indian Sultanates'', New Delhi: Munshiram Manoharlal, 2001, pp. 463-464.〕。1551年、ハイダルは反乱を起こしたカシミール人との戦闘で落命する〔。
ハイダルの遺体はカシミールのシュリーナガル内のGorstan e Shahiに埋葬されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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