翻訳と辞書
Words near each other
・ ミウラタダヒロ
・ ミウラート・ヴィレッジ
・ ミウラ折り
・ ミェシュコ
・ ミェシュコ1世
・ ミェシュコ1世 (チェシン公)
・ ミェシュコ1世プロントノギ
・ ミェシュコ2世
・ ミェシュコ2世 (ポーランド王)
・ ミェシュコ2世オティウィ
ミェシュコ2世ランベルト
・ ミェシュコ3世
・ ミェチスワフ・カルウォヴィチ
・ ミェチスワフ・カルウォーヴィチ
・ ミェチスワフ・クリマシェフスキ
・ ミェチスワフ・クリマシェフスキー
・ ミェチスワフ・ホルショフスキ
・ ミェチスワフ・ボルタ=スピェホヴィッチ
・ ミェチスワフ・ワインベルク
・ ミェチスワフ・ワインベルグ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ミェシュコ2世ランベルト : ミニ英和和英辞書
ミェシュコ2世ランベルト[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ミェシュコ2世ランベルト ( リダイレクト:ミェシュコ2世 (ポーランド王) ) : ウィキペディア日本語版
ミェシュコ2世 (ポーランド王)[みぇしゅこ2せい]

ミェシュコ2世ランベルトMieszko II Lambert990年 - 1034年5月10日)は、ポーランド王
ボレスワフ1世と王妃エムニルダ(ラウジッツ領主の娘とみられる)の子として生まれた。当時としては非常に良い教育を受けた人物で、ギリシャ語ラテン語の読み書きができたという。1013年頃からクラクフ知事を務め、教会を多く建てていた。
1025年にグニェズノで即位。1028年初頭からドイツ軍の侵入に悩まされ、逆にザクセンまで敵を追い返したこともある。ハンガリー王国と同盟して、ハンガリーによるウィーン占領に参加。
庶兄ベスプリムの存在は、年長者相続制をとってきたポーランドにおいてミェシュコの王位を脅かすものであった。彼は兄を修道院へ追いやるが、彼はキエフ大公ヤロスラフ1世の軍事支援を得て舞い戻り、1031年にミェシュコ軍を敗退させて王位に就いた。ベスプリムはドイツの宗主権を認め、王冠や王家の宝石をドイツへ渡し、国土をミェシュコの同母弟オトン、従弟ティエドリックとともに分割した。ボヘミアへ逃げたミェシュコはほどなくして王位を奪還、ベスプリムを殺害し、オトンを排除して(彼は自身の部下に殺害された)再び国を統一した。
この後の経過は現在でも謎のままであるが、ミェシュコは1034年に急死した。歴史家は貴族による暗殺と推測している。ミェシュコの死後、異教信仰を保持し続ける農民が大規模反乱を起こした(この反乱の原因と日付は不明である)。
==子女==
1013年、エッツォ家のロタリンギア宮中伯エッツォの娘で神聖ローマ皇帝オットー3世の姪にあたるリヘザ・ロタリンスカと結婚。
*カジミェシュ1世(1016年-1058年)
*娘(1052年没) - ハンガリーベーラ1世
*ゲルトルダ(1025年-1108年)- キエフ大公イジャスラフ1世




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミェシュコ2世 (ポーランド王)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mieszko II Lambert 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.