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ミェシュコ2世 ( リダイレクト:ミェシュコ2世 (ポーランド王) ) : ウィキペディア日本語版
ミェシュコ2世 (ポーランド王)[みぇしゅこ2せい]

ミェシュコ2世ランベルトMieszko II Lambert990年 - 1034年5月10日)は、ポーランド王
ボレスワフ1世と王妃エムニルダ(ラウジッツ領主の娘とみられる)の子として生まれた。当時としては非常に良い教育を受けた人物で、ギリシャ語ラテン語の読み書きができたという。1013年頃からクラクフ知事を務め、教会を多く建てていた。
1025年にグニェズノで即位。1028年初頭からドイツ軍の侵入に悩まされ、逆にザクセンまで敵を追い返したこともある。ハンガリー王国と同盟して、ハンガリーによるウィーン占領に参加。
庶兄ベスプリムの存在は、年長者相続制をとってきたポーランドにおいてミェシュコの王位を脅かすものであった。彼は兄を修道院へ追いやるが、彼はキエフ大公ヤロスラフ1世の軍事支援を得て舞い戻り、1031年にミェシュコ軍を敗退させて王位に就いた。ベスプリムはドイツの宗主権を認め、王冠や王家の宝石をドイツへ渡し、国土をミェシュコの同母弟オトン、従弟ティエドリックとともに分割した。ボヘミアへ逃げたミェシュコはほどなくして王位を奪還、ベスプリムを殺害し、オトンを排除して(彼は自身の部下に殺害された)再び国を統一した。
この後の経過は現在でも謎のままであるが、ミェシュコは1034年に急死した。歴史家は貴族による暗殺と推測している。ミェシュコの死後、異教信仰を保持し続ける農民が大規模反乱を起こした(この反乱の原因と日付は不明である)。
==子女==
1013年、エッツォ家のロタリンギア宮中伯エッツォの娘で神聖ローマ皇帝オットー3世の姪にあたるリヘザ・ロタリンスカと結婚。
*カジミェシュ1世(1016年-1058年)
*娘(1052年没) - ハンガリーベーラ1世
*ゲルトルダ(1025年-1108年)- キエフ大公イジャスラフ1世




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミェシュコ2世 (ポーランド王)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mieszko II Lambert 」があります。




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