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マチルダ・クシェシンスカヤ : ミニ英和和英辞書
マチルダ・クシェシンスカヤ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マチルダ・クシェシンスカヤ : ウィキペディア日本語版
マチルダ・クシェシンスカヤ

マチルダ・フェリクソヴナ・クシェシンスカヤ マチーリダ・フィェーリクサヴナ・クシスィーンスカヤラテン文字転写の例: 、1872年8月31日ロシア暦8月19日) - 1971年6月7日)は、ロシアバレリーナ。ロシアで初めてプリマ・バレリーナ・アッソルータとなった人物。ロシア皇帝ニコライ2世の愛人であったことで知られている。ポーランド語名はマティルダ・クシェシンスカ()。
== 生涯 ==
ポーランドにルーツを持つ一家の一員としてリゴヴォ(サンクトペテルブルク近郊の町)で生まれた。家族には舞踏家が多かったため自然とマチルダもバレエを学び、マリインスキー・バレエ団に入った。ピエリーナ・レニャーニと並ぶスターとなった。醜聞と噂が彼女の名前を取り巻くようになり、ロマノフ家の2人の大公、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公(ニコライ1世の息子ミハイル・ニコラエヴィチ大公の子)とアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公(アレクサンドル2世の息子ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の子。ニコライ2世の従弟)らと三角関係に陥った。
マチルダは自身の皇族・貴族らのコネを通して、ロシアの首都で多くの資産を蓄えた。1917年にフィンランドから帰国したレーニンが、集まった群衆に呼びかけたのは、彼女の豪奢な自宅のバルコニーからであった。
ロシア革命後、マチルダは南仏リヴィエラへ逃れ、パリへ移った1921年に、アンドレイ・ウラジーミロヴィチ元大公と貴賤結婚した。2人の間には一人息子ウラジーミル・ロマノフスキー=クラシンスキー(1902年 - 1974年)がいた(アンドレイはウラジーミルを自身の息子として認知していたが、本当の父親はセルゲイ大公だと言われている)。
1929年から、マチルダは自身でバレエ学校を開き、マーゴ・フォンテインアリシア・マルコワアンドレ・エグレフスキータマーラ・トゥマーノワらを教えた。彼女が観衆の前で最後に踊ったのは、コヴェント・ガーデンで行われた慈善イベントの時で、64歳であった。1960年にはというタイトルの自伝を出版した。
マリインスキー劇場のバレエ監督であったマリウス・プティパは、上記の経緯から彼女に対しあまり好感を抱いてなかったが、ダンサーとしての実力は認めており、『バヤデルカ』など自身の多くの作品の蘇演に彼女を起用している。
== 著書 ==
*(自伝) - Paris, 1960
:
*英訳版 - London, 1960, 1973
:
*邦訳版 『ペテルブルグのバレリーナ クシェシンスカヤの回想録』 - 関口紘一・監修、森瑠依子・訳、平凡社、2012年

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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