翻訳と辞書
Words near each other
・ ヘルマン・ツァップ
・ ヘルマン・ツィルヒャー
・ ヘルマン・ツンペ
・ ヘルマン・ツー・ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ
・ ヘルマン・ツー・ホーエンローエ=ランゲンブルク
・ ヘルマン・ティミッヒ
・ ヘルマン・ティルケ
・ ヘルマン・テッヒョー
・ ヘルマン・デニス
・ ヘルマン・トロチック
ヘルマン・トーレス
・ ヘルマン・ニッチ
・ ヘルマン・ニッチェ
・ ヘルマン・ニッチュ
・ ヘルマン・ネッケ
・ ヘルマン・ノール
・ ヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセン
・ ヘルマン・ハインリヒ・ゴッセン
・ ヘルマン・ハンケル
・ ヘルマン・ハンゼン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヘルマン・トーレス : ミニ英和和英辞書
ヘルマン・トーレス[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヘルマン・トーレス : ウィキペディア日本語版
ヘルマン・トーレス[ちょうおん]

ヘルマン・トーレスGermán Torres、男性、1957年5月28日 - )は、メキシコプロボクサー。元WBC世界ライトフライ級王者。
日本人女性と結婚し、妻方の姓から大関トーレスを名乗った。長男利幸トーレス、二男健文トーレス(トーレス・マルティネス・健文)ともにプロボクサーとなった。アルマンド・トーレス(大関一郎)は甥。
== 来歴 ==
1975年8月27日、プロデビュー。
1979年11月24日、初代メキシコライトフライ級王座を獲得。以後、3度防衛した。
1981年8月16日、WBC世界ライトフライ級王者イラリオ・サパタ()に挑戦し、0-3の大差判定負けで王座獲得ならず。
1981年10月31日、メキシコライトフライ級王座4度目の防衛戦でアマド・ウルスア()と対戦し、判定負けで王座から陥落した。
1982年3月27日、メキシコライトフライ級王座決定戦でフランシスコ・モンティエル()と対戦し、5回KO勝ちで王座に返り咲いた。
1982年6月7日より活動拠点を日本に移し、協栄ジムと契約、リングネーム協栄トーレスとし、日本人を初めとするアジア人と多く対戦した。
1983年9月10日、韓国で行われたWBCライトフライ級王座決定戦で張正九()と対戦し、10回に2度ダウンを奪われるなどして0-3の判定負けで王座獲得ならず。
1985年4月27日、リングネーム大関トーレスと改め、韓国で王者張正九と再戦し、0-2(114-114、114-115、114-116)の僅差判定負けで王座獲得ならず。
1986年4月13日、韓国で王者張正九と再々戦し、0-3の判定負けで王座獲得ならず。
1988年12月11日、韓国で行われたWBC世界ライトフライ級王座決定戦で姜順中()と対戦し、3-0の判定勝ち。5度目の挑戦にして世界王座を獲得した。
1989年3月19日、韓国で行われた初防衛戦で挑戦者李烈雨()と対戦し、9回TKO負けで王座から陥落した。
1991年6月21日、メキシコで行われた試合を最後に3年のブランクを作った。
1994年6月10日、兵庫県姫路市で地元のホープで姫路木下ボクシングジム創始者子息大場貴志との試合で10回判定負けした試合を最後に引退した。
井岡弘樹のトレーナーとして来日し、グリーンツダジムに所属。その後も、日本のジム(オールボクシングジム、大鵬ジム)でトレーナーとして活動。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘルマン・トーレス」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.