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ヘルマン・テッヒョー : ウィキペディア日本語版
ヘルマン・テッヒョー[ちょうおん]
エードゥアルト・ヘルマン・ローベルト・テッヒョー(Eduard Hermann Robert Techow 、1838年8月25日 - 1909年1月25日)は、ドイツ司法官行政官。日本の教育顧問〔契約書上は教育制度担当の「内閣顧問(Beirat des Kabinets)」と記されていたが、また近代的内閣制度の発足(1885年12月)以前なので、端的には太政官顧問といってよかった(鈴木(2004)43頁)。1886年2月、鍋島直大式部長官の照会に対して、田中光顕内閣書記官長は、「独人ヘルマン・テッヒョー、同カール・ルドルフ、仏人フォンタラビー・ボワソナード、独人ヘルマン・ロエスレル。右勅任に準ずべきもの」と回答している(鈴木(2004)44頁)。〕、民事訴訟法案の検討者、起草者等を歴任。勲三等旭日中綬章受章。呼称については、テッヒョウ、古くはテッチョウ、テショウ、テヒャウ、テヒョー、徹証、哲憑とも表記される〔鈴木(2004)38頁。〕。
== 人物 ==
プロイセン王国の東北隅、プロイセン州の主要都市、ケーニヒスベルク出身。テッヒョーの父フリードリヒ(Friedrich Techow)はギムナジウムの校長で、国民自由党(Nationalliberale Partei)の一員として帝国議会(下院(Reichstag))の議員をしていた〔鈴木(2004)40頁。〕。明治初期に来日したお雇い外国人の一人。幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の民事訴訟法の整備に大きな貢献を果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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