翻訳と辞書
Words near each other
・ ピエール・プティ
・ ピエール・プルードン
・ ピエール・ベジェ
・ ピエール・ベジエ
・ ピエール・ベック
・ ピエール・ベルチェ
・ ピエール・ベルナック
・ ピエール・ベレゴボワ
・ ピエール・ベレゴヴォワ
・ ピエール・ベンスーザン
ピエール・ベール
・ ピエール・ホイビェルグ
・ ピエール・ボスト
・ ピエール・ボナール
・ ピエール・ボヤ
・ ピエール・ボワトー
・ ピエール・ボーシャン
・ ピエール・ボーニエ
・ ピエール・ポルト
・ ピエール・ポワブル


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ピエール・ベール : ミニ英和和英辞書
ピエール・ベール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ピエール・ベール : ウィキペディア日本語版
ピエール・ベール[ちょうおん]

ピエール・ベールPierre Bayle, 1647年11月18日 - 1706年12月28日)は、フランス哲学者思想家。『歴史批評辞典』などを著して神学的な歴史観を懐疑的に分析し、啓蒙思想の先駆けとなった。
==生涯==
南フランス、ピレネー山麓の寒村、ル・カルラで、プロテスタントカルヴァン派)の牧師の息子として生まれる。ピュイローラントゥールーズの学院で学ぶ〔平凡社『世界宗教大事典』〕。1669年に一度カトリックに改宗するが、翌年カルヴァン派に復帰〔『ブリタニカ国際大百科事典』〕。そのため迫害に遭い〔小学館『日本大百科全書』 「ベール」項〕、スイスジュネーヴに逃れる。同地のジュネーブ大学で学び〔『岩波 哲学・思想事典』 「ベール」項〕、デカルト哲学に触れる〔。以後フランスに戻り、1675年からスダンの新教大学の哲学教授となる。しかしプロテスタントへの宗教迫害により1681年に大学が強制閉鎖され、オランダロッテルダムに移住する。以後、同地の高等教育機関で哲学と宗教を教える〔集英社『世界文学大事典』〕。
1682年に『彗星に関する手紙』、翌年に増補改訂版として『彗星雑考』を匿名で刊行。彗星の出現に関する迷信を批判して道徳宗教からの自立性を説き、スピノザらの存在を強く主張。1684年春から1687年冬にかけ、月刊誌『文芸共和国便り』を刊行。全西欧的な名声を得る。1685年フォンテーヌブローの勅令ナントの勅令廃止)直後に『〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの御言葉に関する哲学的注解』を刊行。新教徒迫害に対して良心の自由と宗教的寛容を訴える。これは王権寛容を請願しようとするものだったが、年来の同僚であったら王権打倒を唱える強硬派の方針と対立。論争の末、1693年にロッテルダムの教職を追われる〔。
以後はかねてから計画を温めていた執筆活動に専念。1696年に『歴史批評辞典』を刊行。驚異的な博識と卓抜な批判精神をもとに、従来の歴史辞典の誤記や不正確を正し、なおかつ既存の硬化した哲学体系、宗教体系に対する痛烈な批判と皮肉を込めた作品であった〔〔。
晩年は「神と悪の存在」を追求し、善悪二元論や人間理性の脆さを確認し、信仰至上主義へ至る。晩年の著作『ある田舎者の質問に対する回答』、『彗星雑考続編』、未完の遺作『マクシムとテミストの対話』では、これと対立するフランス語教会内の理神論的神学者との論争が多くを占める〔。
1706年にロッテルダムにて客死。終生カルヴァン派の思想を持ち続けたとされる〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ピエール・ベール」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.