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ピエトロ・ベンボ : ミニ英和和英辞書
ピエトロ・ベンボ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ピエトロ・ベンボ : ウィキペディア日本語版
ピエトロ・ベンボ

ピエトロ・ベンボ(、1470年3月20日 - 1547年1月12日〔Haar, Grove online (2001)〕あるいは1月18日Encyclopædia Britannica 〕)は、ルネサンス期イタリア詩人人文学者文学理論家聖ヨハネ騎士団の一員でローマ・カトリック枢機卿でもあった。ベンボは近代イタリア語の革新に影響を与えた人物であり、フィレンツェを中心とするトスカーナ方言を近代イタリアの標準語として体系化することに大きく寄与した。ベンボの著作は、14世紀の詩人、人文学者で16世紀になって再評価されたペトラルカの業績に影響を受けている。またベンボの理論は、16世紀でもっとも重要な世俗歌劇であるマドリガーレにも多大な影響を与えている〔Grove online〕。
== 生涯 ==

ベンボはヴェネツィアの貴族階級に生まれた。父親のベルナルド・ベンボは、中世イタリア最大の詩人ダンテ・アリギエーリの没地であるラヴェンナに、ダンテの記念碑を建立することに尽力した人物である〔''Catholic Encyclopedia'': "Pietro Bembo" 〕。ベルナルドはヴェネツィア共和国の外交官で、幼いピエトロ・ベンボも父とともに諸国を旅している。父に連れられて滞在したフィレンツェではトスカーナ方言に魅せられた。ベンボが魅せられ、身につけたこのトスカーナ方言が、その後のイタリア文学、音楽の歴史に非常に重要な役割を果たすようになっていった。
ベンボはメッシーナのコンスタティヌス・ラスカリスのもとで、二年間ギリシア語を学び、その後パドヴァ大学に入学した。1497年から1499年にかけては、イタリア有数の文学と音楽の中心地となるフェラーラの領主フェラーラ公エルコレ1世・デステの宮廷で過ごしている。ベンボはフェラーラで詩人ルドヴィーコ・アリオストと出会い、最初の著作となる、宮廷での恋愛劇を描いた『アーゾロの談論 (:en:Gli Asolani)』を書き始めた。この作品に記されている詩歌は、14世紀の詩人ボッカッチョやペトラルカの作品を髣髴とさせ、16世紀の音楽にも広く影響を与えている。ベンボは自身の詩歌をリュートの伴奏で女性が歌い上げることを好み、音楽の愛好家でリュートの演奏家でもあったマントヴァ侯妃イザベラ・デステと1505年に拝謁したときには、自身の著作をイザベラに贈っている〔Haas, Grove online〕。
ベンボは1502年と1503年にもフェラーラを訪れており、フェラーラ公妃ルクレツィア・ボルジアと不倫関係になったといわれている。ベンボがフェラーラを離れたのは、著名な作曲家ジョスカン・デ・プレがフェラーラ宮廷に迎え入れられたのとほぼ同時期で、当時フェラーラで大流行し始めていたペストを避けるためだった。このフェラーラでのペスト大流行は1505年にもっとも多くの死者を出し、著名な作曲家ヤーコプ・オブレヒトもこのときにペストで死去している〔Allan W. 1998. ''Renaissance Music''. New York: W.W. Norton, p.295.〕。
ベンボは1506年から1512年にかけてウルビーノ公国に滞在し、もっとも重要な著作となる、イタリア語での詩歌制作を扱った『俗語読本 ()』を書き始めたが、出版されたのは1525年になってからだった。1513年に枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後のローマ教皇クレメンス7世)の随伴員としてローマを訪れ、ジュリオの従兄のローマ教皇レオ10世のラテン語担当秘書官に任命された。1514年にはマルタ騎士団の前身である聖ヨハネ騎士団の一員に選ばれている。レオ10世の死去と健康を害したこともあって、ベンボは1521年にローマを離れてパドヴァへと向かった。パドヴァでも著作を続け、1525年に『俗語読本』が出版された。ベンボは1530年に故郷フィレンツェ共和国の公式歴史担当官職に就き、その後間もなくサン・マルコ寺院付属図書館の館長にもなっている〔University of Mannheim "Italian Authors" 〕。
1538年12月20日にローマ教皇パウルス3世が教皇権限 (:en:In pectore) でベンボを枢機卿候補に指名した。このためベンボはローマへと戻り、助祭叙階を受けている。叙階が終わった後にベンボの枢機卿立候補が発表され、1539年3月10日に開催された教皇枢密会議でサン・シリアコ・アッレ・テルメ教会助祭枢機卿に任命された。その後サン・クイーリコ・ドルチャ教会助祭枢機卿に異動し、1542年2月にサン・クリソゴノ教会司祭枢機卿に昇格している。さらに二年後にはサン・クレメント聖堂司祭枢機卿に異動した〔Catholic Hierarchy 〕。
ベンボはローマでも新しい著作の書下ろしと過去の著作の見直しを続け、同時に文学理論や古典の研究も行っていた。それまでの業績への報酬としてグッビオベルガモの司教区管理者を任されたが、司教枢機卿には任命されなかったと考えられている〔Catholic Hierarchy〕。ベンボはローマで77歳で死去し、ローマ教皇庁近くのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に埋葬された〔''Catholic Encyclopedia〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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