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バヤズィト1世 : ウィキペディア日本語版
バヤズィト1世[ばやずぃと1せい]

バヤズィト1世トルコ語:I. Beyazıt、 1360年 - 1403年3月8日もしくは3月9日)は、オスマン帝国の第4代皇帝(在位: 1389年 - 1402年)。日本語ではバヤジット1世とも表記される。ムラト1世の子で、母ギュルチチェク・ハトゥンはギリシャ系キリスト教徒と考えられている。
積極的な外征と迅速な決断より、「雷帝」「稲妻」(イュルドゥルム、イルディリム)と呼ばれた〔F.トレモリエール、C.リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1』、413頁〕。
== 生涯 ==

=== 即位、オスマン宮廷の「兄弟殺し」の始まり ===
1360年にオスマン皇帝ムラト1世とバルカン半島の奴隷出身の妃ギュルチチェク・ハトゥンの子として産まれ、幼少時代を第二宮廷のあったアナトリア半島のブルサで過ごしている。
王子時代より戦場で活躍し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇子アンドロニコスと共謀して反乱を起こした長兄サヴジが処刑されると、彼がムラト1世の後継者に指名される。ムラトが取り決めた政略結婚によりの王女と結婚、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤなどの都市がオスマンに譲渡された〔N.アクシト『トルコ 2』、57頁〕。
1389年6月15日コソボの戦いの最中、ムラトがセルビア人の貴族によって暗殺されると、6月16日にバヤズィトが即位した。コソボの戦いには彼以外にヤクブら弟たちも従軍していたが、即位後直ちにバヤズィトは人望の厚いヤクブ〔羽田「バヤジット1世」『アジア歴史事典』7巻収録〕をはじめとする弟たちを処刑し、スルタンの地位を確かなものとした〔。この弟たちの粛清が、彼の治世以降のオスマン帝位継承に伴って起きる兄弟殺しの先例となる〔R.マントラン『改訳 トルコ史』、47頁〕〔鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、50頁〕。
ムラトが暗殺された時点のオスマン軍は、左翼がセルビア騎兵隊に撃破された危機的な状況にあったが、跡を継いだ彼は体勢を立て直してセルビアを破り、セルビア公ラザル・フレベリャノヴィチら捕虜とした貴族を処刑した〔尚樹『ビザンツ帝国史』、852頁〕。この時にバヤズィトは自ら武器を取って敵軍に突撃し、血路を開いたと言われる〔N.アクシト『トルコ 2』、57-58頁〕。1390年、バヤズィトはセルビア公ラザルの娘を娶り、義弟もバヤズィトに臣従し、以後セルビアはオスマン帝国の属国として存続することとなった。
バヤズィトの即位に際して、ビザンツの宮廷でも政変が起きる。を統治していたアンドロニコスの子ヨハネス7世がオスマンに臣従を誓い、バヤズィトはオスマンに完全に服従していなかった皇子マヌエルの対立帝としてヨハネス7世を擁立した〔。オスマンに加えてジェノヴァの支援を受けたヨハネス7世は反乱を起こして1390年4月に即位、ヨハネス7世の治世は5か月余りであったが、ヨハネス7世が帝位を追われた後もビザンツ帝位はオスマンの影響下に置かれる〔尚樹『ビザンツ帝国史』、853頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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