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バヤズィト2世 : ウィキペディア日本語版
バヤズィト2世[ばやずぃと2せい]

バヤズィト2世トルコ語:II. BayezidもしくはII. Beyazıt、1447年12月3日 - 1512年5月26日)は、オスマン帝国の第8代皇帝スルタン)。第7代皇帝メフメト2世の子(在位:1481年 - 1512年)。「聖者(ヴェリー)」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであった。華々しい外征を行った父メフメト2世と息子セリム1世に比べて外征で目覚ましい成果が見られず〔鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、119頁〕、書籍では業績を低く評されることもある〔ジョン.W.バーカー「メフメト2世」『世界伝記大事典 世界編』11巻(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1978年 - 1981年)〕。彼の治世については、停滞の時代〔永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、70頁〕、あるいはメフメト2世の時代の反動でイスラーム色が前面に出た保守的な時代とする見方がある〔鈴木『オスマン帝国』、119頁 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』、73-74頁〕。
== 生涯 ==

=== 即位以前 ===
1447年にメフメト2世の長子として生まれた。1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメトによってアナトリアベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった〔A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、121頁〕。オスマン帝国の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦い:en:Battle of Otlukbeli)では、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した〔A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、244頁〕。
メフメトの存命中、中央集権化と国際化に反発する運動がイスラーム宗教界、そしてバヤズィトによって行われた〔A.クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、250頁〕。アマスィヤのバヤズィトの宮廷にはメフメトの独裁的とも言える政策に反対する党派が形成され、メフメトは反対派を監視することはできても、彼らを解散させることはできなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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