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ラザル・フレベリャノヴィチ : ミニ英和和英辞書
ラザル・フレベリャノヴィチ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ラザル・フレベリャノヴィチ : ウィキペディア日本語版
ラザル・フレベリャノヴィチ

ラザル・フレベリャノヴィチ(, 1329年 - 1389年6月28日)は、ネマニッチ朝断絶後のセルビアの公。
1371年、ウロシュ5世をもってネマニッチ朝が断絶すると、セルビアは群雄が割拠する分裂状態となったが、その中でもラザルは最有力で主導的立場にある群雄であった。
1386年、ラザルはオスマン帝国ムラト1世から臣従するように迫られたが、これを拒絶してあくまでセルビアの独立を保とうとした。このため1389年、ムラト1世率いるオスマン軍とコソヴォ平原において決戦を挑んだ(いわゆるコソヴォの戦い)。ラザルはセルビア諸侯と連合軍を結成し奮戦したが、戦いはオスマン軍の優勢に進み、ラザル自らが捕虜となった。
戦いの最終局面で、離脱と降伏を装ったセルビア貴族によってムラト1世が暗殺されたため、その報復としてムラトの後を継いだバヤズィト1世により処刑された。生き残った息子ステファン・ラザレヴィチは間もなくバヤズィトに臣従し、以後セルビアはオスマン帝国の属国として存続することとなった。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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