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ネセシティ砦の戦い : ミニ英和和英辞書
ネセシティ砦の戦い[ねせしてぃとりでのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とりで]
 (n) fortress
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ネセシティ砦の戦い : ウィキペディア日本語版
ネセシティ砦の戦い[ねせしてぃとりでのたたかい]

ネセシティ砦の戦い(Battle of Fort Necessity)、またはグレイトメドウズの戦いは、1754年7月3日に、現在のペンシルベニア州ファイェット郡ファーミントンの、山の頂上にある集落で行われた戦いである。これはフレンチ・インディアン戦争の端緒となる戦いの一つであり、ジョージ・ワシントンにとって唯一の降伏であり、同年5月28日ジュモンヴィルグレンの戦いと並んで、七年戦争が軍事的拡張を遂げる一因となった。
ワシントンは、アレゲニー山脈を通る峠の、頂上の西にあるアルパイン・メドウにネセシティ砦を建てた。近くを通る他の道は、アレゲニー・プラトーの比較的低い土地に沿って、ペンシルベニア州コンフルエンス、そして、ペンシルベニア州ユニオンタウンに端を発するネマコリンズトレイルの西、そして、ファイエット郡の他の地域に通じていた。
==歴史的背景==

1740年代から1750年代の始めにかけて、イギリスフランス交易者は、以前にも増してオハイオカントリーを訪れるようになった。このオハイオカントリーには、オハイオ川上流の連水経路(現在のペンシルベニア西部)も含まれていた〔O'Meara, pp. 10–12〕。ヌーベルフランス当局は、イギリス人交易者や入植者を追い出すためにより攻撃的になり、1753年には、一連の建設をこの地において始めた〔O'Meara, pp. 15–19〕。その前のジョージ王戦争で、フランス系カナダ人は、イギリスの入植に対して、恨み以上の感情を抱いていた〔W. J. Eccles, France in America, p. 179〕。
フランスの砦建設は、イギリスのみならず、地元のインディアン諸族の注意をも喚起した。フランスとインディアンは同盟関係を結んでいたが、イギリス人交易者は、フランス系カナダ人よりも、自分たちとの取引を優先するよう、インディアンを説得して成功しており、フランスが計画していた大規模な進軍は、好意的に受け止められなかった〔O'Meara, p. 27〕。その理由として、フランスの交易者たちは、既にアングロアメリカの交易者たちがインディアンに売りつけたのと同じものを、しかもほぼ同じ値段で売りつけたことが挙げられる。これはきわめて難しいことであり、1、2名のモントリオールの交易者を除いて、ヌーベルフランスの商人は、オハイオカントリーで商売をするのをかなり渋った〔Canadian Frontier, W. J. Eccles, p. 165〕 。特に、ハーフ・キングとして知られるミンゴ族族長タナチャリゾンは、次のようないきさつから、反フランスの立場を取った。伝えられるところによると、ヌーベルフランスの砦建設隊の指揮官である、ポール・マリン・ド・ラ・マルグとの会合で、ラ・マルグは、機嫌を損じて、タナチャリゾンにこう怒鳴った。「お前に言っておく、もし俺が川を下って行って、そこが封鎖されでもしていたら、その封鎖を爆破して、俺に逆らう奴を踏みにじってやる。お前のたわ言など俺にはまっぴらだ」〔そしてド・ラ・マルグは、タナチャリゾンが友好のしるしとして贈ったウォムパムを投げ捨てた〔O'Meara, p. 28〕。その後ほどなくしてラ・マルグは死に、砦建設の指揮は、ジャック・レガルデュール・ド・サンピエールに引き継がれた〔O'Meara, pp. 4,30〕。
ヴァージニア植民地民兵大佐であるジョージ・ワシントンは、総督ロバート・ディンウィディーに、オハイオテリトリー(ヴァージニアを含むいくつかのイギリス植民地)のルブッフ砦まで召喚状を渡すべく派遣され、ウィリアムズバーグを発った。ルブッフ砦にはサンピエールがいて、上官命令でここにいると丁重にワシントンに告げた。しかし、この召喚状の宛先は、ヌーベルフランスにいるサンピエールの上官でなければならなかった〔O'Meara, pp. 3–5,33〕。

ワシントンはウィリアムズバーグに戻って、ディンウィディーに、フランスが立ち退きを拒否したと伝えた〔Anderson, p. 45〕。ディンウィディーはワシントンに、民兵を召集して、オハイオ分岐点ピッツバーグ)を守るように言った。このオハイオ分岐点は、ワシントン自身が砦を築くにふさわしい場所であることを認めていた〔Anderson, pp. 43–45〕。ディンウィディーはまた、オハイオカンパニーの従業員であるウィリアム・トレントに委任状を出した。それには、小隊を召集して、直ちにオハイオの砦の建設に取り掛かるように書かれていた。ディンウィディーはこれらの命令を自分の権限によってのみ行い、ことが起こるまで、立法府下院に、資金の提供を諮ることすらしなかった〔。トレントのオハイオカンパニーは、砦建設の予定地に1754年2月に到着し、タナチャリゾンとミンゴ族の援助を得て、倉庫と貯蔵庫の建設に取り掛かった〔Anderson, p. 46〕〔O'Meara, p. 49〕 。それへの対抗策として、フランス系カナダ人たちは、クロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクール率いる、500人規模の、カナダ人、フランス人、そしてインディアンの部隊を送り込んだ。(噂では、トレントの部隊は千人にも及ぶ規模だったと言われる)4月16日、ヌーベルフランスの軍はオハイオの建設地に着いた。翌日、ヴァージニア兵36人が、不在のトレントに代わって、海軍少尉エドワード・ウォードに率いられてフランス軍を訪問し、その場を立ち退くことに合意した〔O'Meara, pp. 50–51〕。彼らはイギリス軍の砦を取り壊し、自分たちの砦を建てて、デュケーヌ砦と名付けた〔Anderson, p. 49〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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