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トトポトミー・クリークの戦い : ミニ英和和英辞書
トトポトミー・クリークの戦い[ととぽとみー くりーくのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クリーク : [くりーく]
 【名詞】 1. (1) cleek (golf) 2. (2) creek 3. (P), (n) (1) cleek (golf)/(2) creek
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

トトポトミー・クリークの戦い : ウィキペディア日本語版
トトポトミー・クリークの戦い[ととぽとみー くりーくのたたかい]

トトポトミー・クリークの戦い(トトポトミー・クリークのたたかい、、、またはベセスダ教会の戦いクランプス・クリークの戦いシャディグローブ道路の戦いハノーバータウンの戦い〔The National Park Service's campaign classification lists two battles on May 30—Totopotomoy Creek and Battle of Old Church—and provides the alternative battle names shown here. Welcher, p. 983, refers to these collectively as Operations on the Totopotomoy River, with the primary engagement at Bethesda Church. All of the other references to this article refer to the Battle of Bethesda Church.〕)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月28日から30日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である。
グラントはリー軍の右翼に回り込む軍の操作を続け、リー軍を開けた場所での会戦に持ち込もうとしたが、リーはジュバル・アーリー中将の北バージニア軍第2軍団で、北軍ガバヌーア・ウォーレン少将の前進してくる第5軍団を攻撃する機会を伺った。アーリーの指揮下、ロバート・E・ローズ少将とドッドソン・ラムスール少将の師団が北軍の部隊をシャディグローブ道路まで押し返したが、ラムスールの前衛隊が北軍歩兵と砲兵の激しい抵抗に遭って停止させられた。グラントは他の軍団長に南軍の全線にわたって攻撃を支援するよう命令した。南軍はトトポトミー・クリークの背後の塹壕に入っていた。北軍ウィンフィールド・スコット・ハンコック第2軍団のみがクリークを渡ったが、直ぐに撃退された。決着のつかなかった戦闘の後、北軍は南東方面への動きを再開し、月末からのコールドハーバーの戦いに向かった。
== 背景 ==

グラント軍がノースアンナの戦いでリーの仕掛けた罠から逃れた後、再度リー軍の右翼への回り込みを始めた。それは1864年5月の作戦を通じた特徴となる操作の継続だった。パムンキー川の北岸に沿って南東に動き、リー軍の前線を破るための適切な場所を見つけることを期待していた。5月27日、北軍騎兵隊が川の南岸、ハノーバータウン浅瀬近くに橋頭堡を構築した。グラントの歩兵部隊が渡河しているときに、両軍の歩兵師団が5月28日のホーズショップの戦いで戦い、決着はつかなかった〔Salmon, pp. 288–90; Kennedy, pp. 287–90.〕。
リー軍はトトポトミー・クリークの背後の塹壕線で不安定な形にあった。ホーズショップでの騎兵隊の行動でリーに、グラント軍の接近してくる経路を示す貴重な情報を与えていたが、北軍がバージニア中央鉄道を破壊したために、南軍は物資不足に陥っていた。また人員も不足していた。リーはP・G・T・ボーリガード将軍にその12,000名の軍隊から援軍を送ってくれるよう依頼した。ボーリガード軍はバミューダ・ハンドレッドベンジャミン・フランクリン・バトラー少将の軍隊を袋小路に追い込んでいたので、比較的余裕があった。ボーリガードは当初、バトラー軍からの脅威が残っていると言って、リーの要請を断った。リーはこれに失望した。しかもノースアンナ以来下痢に悩まされ続けていたが、戦う決断をした。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスに手紙を書き、「グラント将軍が明日前進してくるなら、現有軍で戦うことになる」と伝えた。数日後、本稿の戦いが終わった後の5月30日に、デイヴィスに対する訴えにボーリガードが折れて、ロバート・ホーク少将の師団7,000名をリー軍に送って来た〔Grimsley, pp. 153–54; Trudeau, p. 251; Rhea, ''Cold Harbor'', pp. 110–11.〕。
5月29日、グラント軍が南西に進んでリー軍と向かい合った。その騎兵隊の大半が他所に行っており、歩兵を使って威力偵察を行うことにした。ウィンフィールド・S・ハンコック少将の第2軍団がリッチモンド・ハノーバータウン道路(アトリー・ステーション道路とも呼ばれた)を辿ってクリークまで進んだ。ハンコックは、リー軍が遠い岸の塹壕にしっかりと入っているのを見て、同じように塹壕を掘って入った。ガバヌーア・ウォーレン少将の第5軍団は第2軍団の前線の左翼に展開し、チャールズ・グリフィン准将の師団をクリークを越えたシャディグローブ道路に置いた。ホレイショ・ライト少将の第6軍団は、ハノーバータウンから北西のハノーバー・コートハウスの方へ送られ、デイビッド・A・ラッセル准将の師団が先導していた。アンブローズ・バーンサイド少将の指揮する第9軍団がホーズショップ近くで予備隊となり、フィリップ・シェリダン少将の騎兵軍団は北軍の最左翼、オールドチャーチ近くにいた。南軍の前線は左翼から右翼に、A・P・ヒル中将の軍団、ジョン・ブレッキンリッジ少将の独立師団(シェナンドー渓谷から戻ってきたばかりだった)、リチャード・H・アンダーソン少将とジュバル・アーリー少将の各軍団が並んだ。その日は小競り合い以上の戦闘は起こらなかった〔Trudeau, pp. 252–53; Salmon, p. 290; Welcher, p. 983; Rhea, ''Cold Harbor'', p. 108.〕。
戦闘はトトポトミー・クリークに沿って戦われた〔''Encyclopedia Virginia'' . Totopotomoy was chief of the Pamunkey Indian tribe from about 1649 until 1656.〕。そこは1862年にゲインズミルの戦いが行われた戦場であり、ハノーバー、ベセスダ教会、ゲインズミルの北とオールド・コールドハーバーが戦場だった〔Eicher, pp. 683–85.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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