翻訳と辞書
Words near each other
・ トゥブレ
・ トゥブ県
・ トゥプア・タマセセ・メアオレ
・ トゥプア・タマセセ・メアッオレ
・ トゥプクスアラ
・ トゥプクスアーラ
・ トゥプテン・ギャツォ
・ トゥプンガト
・ トゥプンガト山
・ トゥプンガート山
トゥホボール
・ トゥホールド
・ トゥボック
・ トゥポウ6世
・ トゥポル
・ トゥマシェリー
・ トゥマッチ
・ トゥマト
・ トゥマト部
・ トゥマニ・ジャバテ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

トゥホボール : ミニ英和和英辞書
トゥホボール[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

トゥホボール ( リダイレクト:ドゥホボール派 ) : ウィキペディア日本語版
ドゥホボール派[どぅほぼる]

ドゥホボール派(またはドゥホボル、ドゥホボールィ、ドゥホボールツィ、聖霊否定派とも、, ラテン文字化: Doukhobor)とはロシアウクライナに起源を持つキリスト教教派神秘主義・絶対的平和主義無政府主義の傾向が強く、共同農業生活を送ってきた。18世紀またはそれ以前に農民の間から現れたとされる。1785年もしくは1786年、ロシア正教会のエカテリノスラフ主教アンブロシウスが「聖霊と戦う者」という意味を込めて彼らにドゥホボールツィと名付けたため「聖霊否定派」と呼ばれることがある。だが、ドゥホボール派は聖霊を肯定しているため、これは不当な呼称である。後に彼らは「聖霊とともに戦う者」という意味を込めてこの呼称を取り入れ、さらに短縮してドゥホボールと名乗るようになった。
世俗的権威を否定し兵役忌避などを実行したのみならず、既成の宗教的権威であるロシア正教の組織や奉神礼、さらには聖書の神聖性やイエスの神性までも否定する。人間の内に神が宿るという性善説から原罪も否定する。 これらによりロシア帝国では弾圧を受け、多くの信徒が19世紀末にカナダへ亡命した。カナダでは同化の是非をめぐり幾つかの派閥に分裂したが、現在でも子孫数万人がおり、数千人が信仰を守っている。ドゥホボール派は、モロカン派と並んで、代表的な合理主義的セクトとされる〔黒川知文『ロシア・キリスト教史』教文館 〕。
また、鞭身派スコプツィ、モロカン派等の諸教派とともに、霊的キリスト教に分類される。
ドゥホボール派は正教古儀式派と混同されることがあるが、彼らは正教を自称せず、正教の古い儀式を守ることもないため、古儀式派には含まれない。主流派ロシア正教会から「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称されることがある点は古儀式派と同じである。
== 歴史 ==

=== 初期 ===
ドゥホボール派の信仰は、18世紀初めにウクライナ・南ロシアで始まったとされている。すべての人の内に神が宿るという信仰から、聖職奉神礼も不要と考えた。知られている最初の指導者はシルアン・コレスニコフで、西欧の神秘主義の影響も受け、1755-75年頃ウクライナで活動した。18世紀末頃に「聖霊に手向かう者」という非難の意味でドゥホボールツィ(:ru:Духоборцы)と呼ばれるようになったが、19世紀になると「聖霊''とともに''戦う者」という意味を込めてドゥホボールィ(:ru:Духоборы)と自称するようになった。
また平和主義に基づき軍隊や兵役を拒否し、このため政府から圧迫を受けた。1799年にはドゥホボール派信徒90人をフィンランドへ追放したとの記録がある。
1802年、皇帝アレクサンドル1世はドゥホボール派やプロイセン由来のメノナイトなど宗教的少数者たちに南ウクライナのモロクナヤ川(「乳の流れる地」という意味)地域への移住を奨めた。これには黒海岸ステップを開発するとともにロシアを「異端」から守る意図があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドゥホボール派」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Doukhobor 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.