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セイウンスカイ : ウィキペディア日本語版
セイウンスカイ

セイウンスカイとは日本競走馬である。1998年スペシャルウィークキングヘイローらを相手に皐月賞菊花賞二冠を達成した。菊花賞では逃げて当時の芝3000メートルの世界レコードを樹立している。引退後は種牡馬となったが、2011年8月16日、繋養先の西山牧場(北海道日高町)で死亡した。
馬齢は旧表記(数え年)に統一する。
== 誕生・デビュー前(1995年 - 1997年) ==
1995年4月26日、北海道鵡川町(現むかわ町)の西山牧場で誕生した。誕生当時の西山牧場は、創業者である西山正行の方針により、最大246頭もの繁殖牝馬と、自家繋養の種牡馬や種付け料が安価な種牡馬の産駒を中心とした大量生産体制をとっていたが、それに伴う管理費の肥大化や繁殖牝馬の血統更新の停滞、導入した種牡馬の失敗などの影響により不振に陥っていた〔別冊宝島413『競馬名馬&名人読本Vol.3』、pp.24 - 33、pp.194 - 195、宝島社、1998年〕。翌1996年、息子の西山茂行が牧場経営の主導権を握ったことを皮切りに、それまでの大量生産体制から少数精鋭体制への転換を試みて、自家繋養の種牡馬をほぼ売却、繁殖牝馬も1998年までには約200頭近くを処分していた〔。セイウンスカイの父・シェリフズスターもこれ以上の成果を期待できないと判断されて廃用となり、残された産駒も次々と売却されていった〔。その結果、調教師の要望で売り残した3頭の産駒のなかに、セイウンスカイと、後に日経賞で2着となるセイウンエリアがいた。
育成段階でもとくに目立つところは見せず、当初入厩先として話を進めていた栗東のとある調教師は、結局入厩拒否のような形で、セイウンスカイを受け取りには来なかった〔。
その後、調教師免許を取得したばかりの保田一隆が、定年で引退する父親の保田隆芳と入れ違いに厩舎を開業するため、入厩馬を探して父の代から付き合いのある西山牧場を訪れた。しかし、入厩が決まっていない2歳馬はセイウンスカイを含めて4頭しか残っていなかった。当時のセイウンスカイは馬体のバランスが悪く、毛色もくすんだ印象のため見栄えがしなかったが、入厩馬のバランス上どうしても牡馬が欲しかったことに加え、シンボリ牧場由来の母系の良さに変わり身を期待して、セイウンスカイを引き取ることにした〔田中直成「【記憶の中の名馬たち】セイウンスカイ①」『週刊Gallop』2007年6月24日号、pp.140-141〕。
その後成長したセイウンスカイは、3歳の秋には見違えるほどバランスが良くなり保田を驚かせたが、同時に気性の激しい面を表すようにもなった〔。
1997年10月1日美浦の保田厩舎に入厩する。調教を積むごとに素質を見せ、かつて2冠馬ミホシンザンの調教をつけていた調教助手の青柳義博に、「これは走る」という印象を抱かせるようになった。12月の新馬戦に出走するプランもあったが、万全を期して翌年のデビューとなった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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