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スールー王国 : ミニ英和和英辞書
スールー王国[すーるー するたん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

スールー王国 : ウィキペディア日本語版
スールー王国[すーるー するたん]

スールー王国スールー・スルタン国、Sultanate of Sulu)は、フィリピン諸島ボルネオ島の間に連なるスールー諸島にかつて存在した国。スルタンを戴くイスラム教国で、1450年代に成立したが、資料によってはその成立時期はより早い。ムスリムの研究者の中には、さらに1世紀前のラジャ・バギンダ・アリ(Raja Baguinda Ali)の時代からスールー王国が存在したと見る者もいる。
ホロ島の都市ホロを都とするスールー王国は、アラビア語を公用語としたほか、マレー語や現地のタウスグ語・バンギギ語・バジャウ語などを使い、中国と東南アジア・西アジアを結ぶ海上交易の一端を担って栄え、最盛期にはスールー海の島の多くを支配した。東はミンダナオ島の西部(サンボアンガ半島)、南はボルネオ島北部(現在のマレーシアサバ州)、北はパラワン島までその支配は及んだ。スールー諸島やミンダナオ島西部といったかつての支配地域は、現在もムスリムの多く住む地域になっている。
1898年にスールー王国は米領フィリピンに併合された。最後のスールーのスルタンは1936年に没し、以後スルタンは即位していない。1823年から1936年までスルタンを出してきたのは王族のうちキラム家(Kiram)であるが、王国滅亡後は王家の複数の家系がスルタン位を主張しはじめ、現在、スルタン一族の間で継承順位を巡る論争が起きている。
== 歴史 ==
1450年代マレー半島マラッカ王国ジョホール生まれのアラブ人、(Shari'ful Hashem Syed Abu Bakr)がスールー諸島に到来した。彼は1457年にスールーに王国を築き、スルタンに就任して「パドゥカ・マウラナ・マハサリ・シャリーフ・スルタン・ハシェム・アブ・バクル」(Paduka Maulana Mahasari Sharif Sultan Hashem Abu Bakr)と改名した。「パドゥカ」とは現地語で「主人」、「マハサリ」は「陛下」の意味である。スールー王国は中国やマレーとの交易で栄え、特に中国には朝貢使節を送った。16世紀後半にスペイン人がフィリピンに来航しセブマニラを征服したが、スールー王国はスペイン勢力の侵入と戦い独立を維持した。
スールー王国の貿易のうち特筆されるものは奴隷貿易である。ジャワやマレーではかつて奴隷が重要な労働力となっており、戦争による捕虜などが奴隷の主な供給源となってきたが、インドネシア周辺がイスラム教化されると同じムスリムを奴隷とすることが禁じられ、奴隷の供給源を外へと求めるようになった。スールー人はミンダナオ島などフィリピン諸島各地へ奴隷狩りの軍を送り捕らえた住民を南方へ売ったため、フィリピン人やスペイン人には「海賊」として恐れられた。
1703年(別の説では1658年)、スールー王国は隣国ブルネイで起こった反乱に対し、ブルネイのスルタンへ援軍を送った。反乱鎮圧後にはブルネイから北ボルネオを得た。同じ年、ミンダナオ島のムスリム国家マギンダナオ王国に全盛期をもたらしたスルタン・クダラットは、スールー王国の姫と結婚し両国間に同盟関係が結ばれた。スールー王国はクダラットにパラワン島を贈ったが、1705年にクダラットはスペインにパラワン島を割譲した。スールーのスルタンの宗教的権威はミンダナオ西部から北ボルネオ各地に割拠する領主やスルタンに及んだが、政治的には各領主たちの独立が進んだ。
スペインは長年、スールー諸島からミンダナオ島に至る「モロ人」(フィリピン諸島のムスリム)の地に対する領有権を主張したが実効支配することはできなかった。各地に割拠するムスリムの領主たちの力が強く、スペインによる征服や改宗の試みは失敗し続けたため、スペインは海岸部の都市や要塞を確保するにとどまった。19世紀になるとムスリムの領主たちは相次いでスペインに征服され、スールー王国の首都ホロも1876年にスペイン軍に占領された。スペインとスールー王国は1878年7月22日に条約を結び、スペイン軍の拠点以外の統治は従来通りスルタンが行うこととなったが、互いの翻訳した条文に食い違いがあった。スペイン語の条文ではスールー諸島の主権はスペインのものとなることになっていたが、タウスグ語の条文では完全な属国としてではなく保護国として表現されていた。
米西戦争講和条約である1898年パリ条約で、スペインがアメリカ合衆国にスールーも含むフィリピンを明け渡した後、アメリカとスールー王国の間で結ばれたベイツ条約にも同様の翻訳の食い違いがあり、20世紀の初頭にアメリカとモロ人の間で戦争(モロの反乱)が起こることになる。スールー王国の独立はアメリカに併合された1898年で終わり、1903年にはミンダナオ島南部から西部、およびスールー諸島にかけてモロ州が成立した。その後の10年以上にわたるアメリカによる軍政の間にモロ人に対する米軍の掃討が続く一方、スールーの諸制度は次第にアメリカ植民地政府のものに置き換えられ、1913年には完全にモロ州は文民統治となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「スールー王国」の詳細全文を読む




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