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ジンナー ( リダイレクト:ムハンマド・アリー・ジンナー ) : ウィキペディア日本語版
ムハンマド・アリー・ジンナー[ちょうおん]

ムハンマド・アリー・ジンナー(英語:Muhammad Ali Jinnah, ウルドゥー語:, ヒンディー語:, 1876年12月25日 - 1948年9月11日)は、インド・ムスリム連盟の指導者、独立パキスタンの初代総督。パキスタンでは「カーイデ・アーザム」(قائد اعظم :「最も偉大な指導者」の意)や、「バーバーイェ・コウム」(بابای قوم:建国の父の意)としても知られている。
== プロフィール ==

=== 生い立ち ===
グジャラート系のホージャー派イスラム教徒(ムスリム)の子、ムハンマド・アリー・ジンナーバーイーとして、イギリス領インド帝国期のシンド州カラチで生まれた。ジンナーの誕生日は、彼についての最も古い学校の記録によると1875年10月20日とされているが、後年ジンナー自身が1876年12月25日に誕生したと公言しているため〔Beginning at least since 1917 when his first biography, ''Ambassador of Hindu-Muslim Unity'', by Sarojini Naidu was published.〕、現在パキスタンにおいては後者が彼の誕生日として国民の祝日に定められている。
ジンナーは7人兄弟の長男として生まれた。彼の父親はジンナーが生まれる前にカーティヤーワール半島から、シンドのカラチに移住してきたグジャラート商人であった〔〔Ahmed, Akbar S. 1997. ''Jinnah, Pakistan and Islamic Identity: The Search for Saladin''. London: Routledge. 320 pages. ISBN 0415149665. page 3.〕 。ジンナーの祖父は、カーティヤーワール半島出身のバーティヤー・カースト(Bhatiaクシャトリヤ階層の1つ)の出身であり、この祖父の時代にジンナーの一族がパンジャーブ地方のムルターンへと移住していることから、ジンナーの祖先は同じパンジャーブ地方に起源を持つラージプート系ヒンドゥーだと推測されている〔。
ジンナーの家族はシーア派のホージャー派に所属していたが、後にジンナー自身は十二イマーム派へと改宗している〔 Vali Nasr ''How Conflicts Within Islam Will Shape the Future'' (W. W. Norton, 2006), pp. 88-90 ISBN 0-3933-2968-2〕。ジンナーはグジャラート語を母語として育ったが、現在グジャラート州で86万人ほどの話者人口を有するカッチ語やシンド語、英語などを習得した〔Fatimah Jinnah, ''My Brother'', pp. 48–49〕。
ジンナーはカラチやボンベイでの初等・中等教育を受けた後カラチのミッションスクールへ、そして16歳のときにボンベイ大学の試験に合格した〔Jinnah, Mohammed Ali. (2007). In Encyclopædia Britannica. Retrieved March 2, 2007, from : Encyclopædia Britannica Online 〕。1892年宗主国イギリス首都であるロンドンに渡った。ロンドンにはグラハムズ・シッピング&トレーディング・カンパニーがあり、この会社は、グラスゴーに本拠地を置き織物とポートワインを手がけていた商社でジンナーの家族が営む会社と取引があった〔。ジンナーは、イギリスに渡る直前に母親の進めもあり2歳年下の遠縁の娘と結婚したが、その結婚生活は短く2年後に若くして妻に先立たれる。また、ジンナーのイギリス滞在中にはその母親も亡くなった〔。
ジンナーは会社員生活を辞め、1896年リンカーンズ・イン法律協会に入った〔。そこで弁護士資格を取得した。19歳のインド人弁護士の誕生は当時最年少の記録であった。ほぼ同じころ、ジンナーは政治への関心を持ち始めた。彼が尊敬する政治家は、当時活躍していたインド人のゾロアスター教徒の政治活動家ダーダーバーイー・ナオロージーや、1890年にインド国民会議派の代表を務めたフェローズシャー・メヘターであった。
ジンナーのイギリス滞在も後半になると、父親の家業が傾いたせいもありイギリスを去り、ボンベイで弁護士事務所を開業した。弁護士生活は成功を収め、ボンベイのマラバール・ヒルに後年ジンナー・ハウスと呼ばれることになる邸宅を構えた。ジンナーの評判は、インド国民会議派の独立運動指導者バール・ガンガーダル・ティラクの知ることとなり、1905年にティラクが中心となった騒擾事件をめぐる裁判の弁護人としてジンナーが雇われることになった。ジンナーは法廷で、「インド人が自らの国での自由と自治を要求するのは当然のことであり、そのようなティラクの要求行動は決して騒擾などではない」という主張を展開したが、ティラクは最終的に投獄されてしまうこととなった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Muhammad Ali Jinnah 」があります。




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