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ジョン・デューイ : ミニ英和和英辞書
ジョン・デューイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジョン・デューイ : ウィキペディア日本語版
ジョン・デューイ[ちょうおん]

ジョン・デューイ(John Dewey、1859年10月20日 - 1952年6月1日)は、アメリカ合衆国哲学者教育哲学者社会思想家チャールズ・サンダース・パースウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。また米国では機能主義心理学〔機能主義 (心の哲学)参照〕に貢献したことでも知られている。20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(ポピュリスト)だった〔John Dewey and the High Tide of American Liberalism. New York, W.W.Norton, 1995 〕。
ローティは「最も敬愛する哲学者」として評価し、「われわれをプラトンカントの呪縛(ドグマ)から解放した〔「リベラルユートピアという希望」岩波書店12頁〕」と指摘したうえで、17世紀の哲学者がスコラ哲学に対して「革命」を興したように、「正確な表象」というそれまでの知識理論を拒絶した点でヴィトゲンシュタインハイデガーに並ぶとしている〔「哲学と自然の鏡」産業図書、24ページ〕。またパトナムもデューイをヒーローとしている〔ヒラリー・パトナム『存在論抜きの倫理』法政大学出版局〕。
== 略歴と業績 ==

=== バーモント大学学生時代とミシガン大学教授 ===
1859年、アメリカバーモント州バーリントン町の食料品店に、父アーチボルトと母ルシナの三男として生まれる。デューイ家はイギリスから移住してきた開拓者の末裔で、父はその四代目だった。裕福とはいえず、少年時代のジョン・デューイは、新聞配達や農場の手伝いなどをして小遣いを稼いでいた〔デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波文庫、訳者解説〕。
15歳のとき、兄のDavis Rich Dewey(1858-1942、のち経済学者・統計学者)が通っていた名門バーモント大学に入学。大学ではチャールズ・ダーウィンの進化論やオーギュスト・コント実証主義哲学・社会哲学などに感化された〔デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波文庫、訳者解説〕。成績優等のためThe Phi Beta Kappa Societyに入会。
バーモント大学卒業後はペンシルベニア州で高校教師を2年間務めたが、中等高等教育機関での教師には自分は向かないと考えるようになり、バーモント州の小学校で一年ほど勤務する。1882年ジョンズ・ホプキンズ大学大学院に再入学し、心理学者スタンレー・ホールのもとで学んだ後、同大学心理学研究所で働きながら、博士号を取得。出版されず紛失した博士論文の題は「カントの心理学」だった。1884年からミシガン大学に勤務。2年間講師を務めたあと、助教授に、1889年に30歳で教授になる。
このミシガン時代にはヘーゲルおよびドイツ観念論を主に研究していたが、1891年に留学先のドイツから帰国し同大学講師になったジョージ・ハーバート・ミードと交友関係をむすび、ヘーゲルの影響圏から抜け出す。ミードはウィリアム・ジェイムズの教え子であり、デューイはジェイムズにも影響を受けるようになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョン・デューイ」の詳細全文を読む




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