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ヒラリー・パトナム : ミニ英和和英辞書
ヒラリー・パトナム[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヒラリー・パトナム : ウィキペディア日本語版
ヒラリー・パトナム[ちょうおん]

ヒラリー・ホワイトホール・パトナム(Hilary Whitehall Putnam、1926年7月31日 - 2016年3月13日)は、アメリカ合衆国哲学者1960年代以来、心の哲学言語哲学、および科学哲学において、西洋哲学の中心人物であった。彼は他の者に対して行うのと同じくらい自分自身の哲学的立場についても、その欠陥が曝露されるまで厳格な分析による吟味を加えることで知られている〔King, P.J. ''One Hundred Philosophers: The Life and Work of the World's Greatest Thinkers''. Barron's 2004, p. 170.〕。その結果、パトナムは頻繁に自分の立場を変更するという評判を得るに至った。
心の哲学において、パトナムは、彼の多重実現可能性という仮説に基づいて、精神と身体の状態のタイプ同一説に対する反論を行ったことや、機能主義という心身問題に関する影響力のある理論でも知られている。
言語哲学においてパトナムはクリプキ等の学者を踏襲して、指示の因果説という理論を発展させ、また双子地球(Twin Earth)論と呼ばれる有名な思考実験に基づいて意味論的外在主義という考えを生み出し、独創的な意味の理論をつくりあげた〔P. Clark-B. Hale (eds.), "Reading Putnam", Blackwell, Cambridge (Massachusetts)-Oxford 1995.〕。
数学の哲学において、彼の指導者であるクワインと共同でいわゆる「クワイン-パトナムの不可欠性テーゼ」を展開した。これは数学的対象の実在性を擁護する主張であったが、のちには転向して、数学はただ論理的であるだけでなく「疑似ー経験的」でもあるという考えを採用するようになった〔Putnam, H. ''Philosophy of Mathematics: Selected Readings''. Edited with Paul Benacerraf. Englewood Cliffs, N.J.: Prentice-Hall, 1964. 2nd ed., Cambridge: Cambridge University Press, 1983.〕。
認識論の分野では、パトナムは「水槽の脳」という思考実験で知られている。これは認識論的懐疑論を批判するものである〔Putnam, H. (1981): "Brains in a vat" in ''Reason, Truth, and History'', Cambridge University Press; reprinted in DeRose and Warfield, editors (1999): ''Skepticism: A Contemporary Reader'', Oxford UP.〕。
形而上学においては、形而上学的実在論と呼ばれる立場を当初擁護していたが、のちに転向し、みずから形而上学的実在論に対する最も辛辣な批判者の一人になった。まず彼は「内在的実在論」と呼ぶ考えを採用したが〔Putnam, H. ''Realism with a Human Face''. Edited by James Conant. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1990.〕、あとになってこの立場も捨て、プラグマティストに触発されて直接的実在論に与した。パトナムの「直接的実在論」とは、心的表象感覚与件といった、心と世界の間を繋ぐ媒介的概念を用いずに、人々が現実的に世界を経験する仕方で形而上学の研究をおこなおうとするものである〔Putnam, H.. ''The Threefold Cord: Mind, Body, and World''. New York: Columbia University Press, 1999.〕。
哲学以外では、パトナムは数学計算機科学の領域でも業績がある。マーチン・デービスとともに、ブール代数充足可能性問題を解決するためにデービス・パトナムのアルゴリズムを開発し〔Davis, M. and Putnam, H. "A computing procedure for quantification theory" in ''Journal of the ACM'', 7:201–215, 1960.〕、ヒルベルトのいわゆる第10問題解決不能であることが証明される一助となった。
政治活動に積極的だった時期があり、特に1960年代後半から70年代はじめにかけては進歩労働党(Progressive Labor Party、略称PLP)の活動に大きく関わった〔To appear in the "American Philosophers" edition of ''Literary Biography'', ed. Bruccoli, Layman and Clarke〕。
== 経歴 ==
パトナムは、1926年イリノイ州シカゴに生まれた。彼の父、サミュエル・パトナムは、アメリカ共産党の機関紙であるデイリー・ワーカー紙に寄稿していたジャーナリストであり翻訳家だった。母リーバはユダヤ人であったが、父が共産主義に傾倒した結果、パトナム自身は非宗教的に育てられた。パトナムの一家は1934年までフランスで暮らし、その後アメリカ合衆国に戻り、フィラデルフィアに居をかまえた〔。
パトナムは、ペンシルベニア大学数学哲学を学び、修士号を得、Philomatheanソサエティのメンバーとなった。これは合衆国で最も古い文学協会である。パトナムはハーバード大学大学院で哲学の研究をつづけ、その後カリフォルニア大学ロサンゼルス校に移り、ここで1951年、博士論文『有限数列の応用における確率概念の意味』によって博士号を得た。パトナムの指導にあたったハンス・ライヘンバッハ(彼の博士論文の主査)やルドルフ・カルナップは、当時の哲学の支配的学派であった論理実証主義の重鎮たちだった。パトナムの最も長く続いた立場のひとつは、自己矛盾を来した論理実証主義に対する拒絶というものだった〔。
ノースウェスタン大学プリンストン大学マサチューセッツ工科大学でそれぞれ短期間教えた後、1965年にパトナムはハーバード大学に移った。この時、同じくマサチューセッツ工科大学で哲学を教えていた彼の妻ルース・アンナ・パトナムもハーバードに移っている。ヒラリーとルース・アンナは1962年に結婚した。ルース・アンナは1927年ドイツ南部の都市ミュンヘンに生まれた。彼女の両親は反ナチスの活動家であり、パトナム同様無神論的教育を受けた。けれどもパトナム夫妻は幼少期に経験した反ユダヤ主義に反発を覚え、子供たちのために伝統的なユダヤ人家庭を築こうと決心した。夫妻はユダヤ教の儀式を受けたことがなかったので、セーデルのため他のユダヤ人家庭を招待した時にも、ルース・アンナによれば「どうすればよいのかわからなかった」という。そこで夫妻はユダヤ教の儀式やヘブライ語の勉強を開始し、しだいにユダヤ人意識を深めていった。この結果1994年、通常のユダヤ教徒が男性なら13歳で受けるバル・ミツワー(成人式)の儀式を、70歳近いヒラリー・パトナムがはじめて受けることになった。さらに4年後、彼の妻もバト・ミツワー(女性の成人式)の儀式を受けた。
パトナムはハーバード大学の人気教師であった。また両親の影響を受けて政治活動にも積極的で、1960年代から1970年代前半まで公民権運動擁護とアメリカのベトナム派兵への反対のために積極的に発言した〔。1963年にはマサチューセッツ工科大学に初めて教授陣と学生が共同で運営する反戦のための委員会を組織した。デイヴィッド・ハルバースタムベトナム戦争報道に憤激したこともある。パトナムは、アメリカ軍が枯葉剤を散布したことがベトコンから南ベトナムの農民を「守る」ことになったとハルバースタムが主張していると思ったのである。また、1965年のハーバード大学への移籍以降も、キャンパス内で抗議運動を呼びかけたり、マルクス主義についてのセミナーを開いたりするなどの活動を行った。ハーバード大学の学生が組織した「民主主義社会実現をめざす学生たち」の運動の顧問を務め、また1968年には進歩労働党(PLP)の党員になった〔。
1968年以降はPLPの活動を中心に政治と関わることになる。ハーバード大学哲学部はこうした活動を問題視し1971年にパトナムを譴責することを試みたが、他の2つの学部から譴責に十分な理由がないことを批判された。しかし、1972年以降はパトナムはPLPとの絆を断つことになった〔 〕。1997年にはボストンのArlington Street Churchで開催された元徴兵忌避活動家たちの集会の席上で、みずからのPLPへの参加が誤りだったと述べた。彼によれば、当初彼は、PLPが協力関係の形成を約束しており、軍隊の内部から組織化を始めようとしていたことに感銘を受けたのだという〔。
1976年に彼はアメリカ哲学会の会長に選出された。さらに翌年には、論理学の哲学や数学への貢献を認められ、Walter Beverly Pearson Professor of Mathematical Logicに選出された。パトナムの急進的政治活動の時代は終わったが、彼は依然として、学者が社会に対して特に大きな社会的かつ倫理的な責任を負っているという信念を抱いている。「どうすれば倫理的問題に決着をつけないか」"How Not to Solve Ethical Problems"(1983年)や「民主主義のための教育」"Education for Democracy"(1993年)といった彼の論文を見れば、彼の政治的見解が依然として革新的立場に立っていたことがわかる。
アカデミズムの一員としてパトナムはアメリカ芸術科学アカデミーに属しており、また英国アカデミーの通信会員にもなっている。2000年6月をもって教職を退任し、ハーバード大学名誉教授となった。最近ではユダヤ教に関心をもち、数冊の書物を出版している。また妻との共著によって、19世紀後半のアメリカにおけるプラグマティズム運動についても数冊の書物を著している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヒラリー・パトナム」の詳細全文を読む




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