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シェイン・マクマホン : ミニ英和和英辞書
シェイン・マクマホン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


シェイン・マクマホン : ウィキペディア日本語版
シェイン・マクマホン

シェイン・マクマホン〔英語での発音はマクマーンとする方が近い。〕(Shane Brandon McMahon1970年1月15日 - )は、コネチカット州ハートフォード出身の実業家。シェイン・O・マックのニックネームを持つ。WWEオーナー・ビンス・マクマホンの息子であり、かつてはWWEのグローバルメディア部門の副社長を務め、WWEのバックステージ、テレビ番組両方に関わっていた。
正式なプロレスラーではないが、選手として試合にも何度となく出場し、タイトルを獲得したこともある。父親のビンス同様、あるいはそれ以上に体を張ったハードな試合を行うこともあった。プロレスの才能は、並みのレスラーを上回っているとの評価を受けている。なお、大一番で見せる「コーナーtoコーナー」はロブ・ヴァン・ダムが元祖である。
== 来歴 ==
1993年ボストン大学を卒業した後、父ビンスが経営するWWE(当時WWF)へ入社。ビンスの息子であるが特別扱いはされず、初めての仕事はイベントスタッフの一員としてチケットの捥ぎりであった。後に販売、マーケティング、デジタルメディア部門などを受け持つようになる。
マクマホン一家のストーリがWWFの前面に押し出されるようになるにつれ、WWFの番組、試合に登場するようになる。1999年には父親のビンスやロックと組んでヒールのユニット「コーポレーション」を結成。ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと抗争を行う。
2001年にはWCWのストーリー上のオーナーとなり、同じくストーリー上のECWオーナーである妹のステファニー・マクマホンと結託。WCW / ECW連合軍(アライアンス)を率い、WWFとの抗争を行った。
2003年ベビーフェイスとしてケインとの抗争でアンフォーギヴェンサバイバー・シリーズに登場して以降はレスラー活動は控えていたが、2006年より再開(以下後述)。
一時期、ハウス・ショーに父親に代わって随行しており、日本武道館さいたまスーパーアリーナで開催されたハウス・ショーにも登場し、大きな歓声をもって迎えられている。10月、WWEのテレビ番組『WWFライブワイヤ』で司会を担当したことがあるマリッサ・マズゥーラと結婚。
2004年2月13日に長男誕生。長男も写真ではあるが既にWWEに登場。7月の日本武道館公演にて来日(初来日はレフェリーとして参加した1990年4月13日の『日米レスリングサミット』〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P98(2002年、日本スポーツ出版社)〕)。
2005年2月、さいたまスーパーアリーナ大会では、11月の記者会見や、直前に開催されたロイヤルランブルで負傷した父ビンスの代理として来日。10月、WWEのテレビ番組であるRAWの放送局がUSAネットワークに戻った際の特番『WWEホームカミング』に登場。ただし登場してすぐにストーン・コールド・スティーブ・オースチンからスタナーを受けてダウンさせられた。11月、サバイバー・シリーズ後のRAWに登場。エリック・ビショフとGMの座を巡って抗争を開始したが、エリック・ビショフ解雇後は、父ビンスと親子ヒールとして活動しショーン・マイケルズと抗争を開始。2006年3月18日に行われた興行、サタデー・ナイト・メイン・イベントにおいてショーン・マイケルズと対戦した際、シェインがシャープ・シューターを出した直後にビンスがゴングを要請し、かつてのモントリオール事件を再現するかのような結末で勝利した。その後も引き続き登場し、ショーン・マイケルズ、トリプルHDXと抗争を繰り広げた。
2007年ウマガを仲間に加えて、父ビンスと共にボビー・ラシュリーと激しく争っていた。
2008年3月の『レッスルマニア24』でのフロイド・メイウェザー・ジュニアの参戦についての交渉役をしていたとも伝えられている。
2009年1月、ビンスにパントキックを浴びせたランディ・オートンに怒りをあらわにし、再びリングに登場する。その後トリプルHバティスタを交えオートン率いるレガシーと抗争する。この抗争以降はリングには上がらず副社長としての業務に戻る。10月、WWE.com上で2010年1月1日をもってWWEを去ることが発表された。その理由は社の上層部にしか告げられず、公には明らかになっていない。11月、UFCの代表ダナ・ホワイトと会談したとの情報が流れる。ホワイトはその件について「ノーコメント」としている。
2010年8月、シェインは中国向けのビデオ・オン・デマンドサービス提供会社『チャイナ・ブロードバンド』(現在のユー・オン・デマンド )のCEOに就任した〔wrestlwiew.com、2010年8月3日報道。〕。またシェインはこの他にスポーツ選手の国際向けマネジメント事業を行っており、所属選手にローリー・マキロイアーニー・エルス(共にプロゴルファー)がいる〔sescoops.com、2011年4月11日報道。〕。
2016年2月22日、WWE・RAWにてリング上でビンスがビンセント・J・マクマホン・レガシー・オブ・エクセレンス・アワードなる自らの父の名前を冠した表彰を設立したと発表した。初受賞者にステファニーを指名して呼び寄せ会話を交わしているところで、シェインは久々にWWEのリングへ姿を現した。シェインは賞自体は素晴らしいが、ステファニーは受賞するに値しないと言うと親子3人で口論となった。シェインはRAWをコントロールしたいと言い、ビンスはシェインがある試合に勝てば望みを叶え、負ければすべての権力を失うという条件を提示した。そして、その試合とはWrestleMania XXXIIジ・アンダーテイカーヘル・イン・ア・セルを行うというものだった。2016年4月3日、Wrestle Mania 32にてジ・アンダーテイカーヘル・イン・ア・セルでの対戦を実現。序盤にはヘル・イン・ア・セルでありながら関節技の応酬となるが中盤より金切りバサミで金網を切っているところにテイカーに抱えられて突き破られ場外戦へと展開。工具箱やモニターでテイカーを殴打後、約6メートルある金網の上から実況席に横たわるテイカーへのエルボードロップを投下するが避けられ誤爆。大ダメージを受けるとリング内へと連れ込まれ、ツームストーン・パイルドライバーを決められ敗戦した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シェイン・マクマホン」の詳細全文を読む




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