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コンスタンティノープル競馬場 : ミニ英和和英辞書
コンスタンティノープル競馬場[こんすたんてぃのーぷるけいばじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
競馬 : [けいば]
 【名詞】 1. horse racing 
競馬場 : [けいばじょう]
 【名詞】 1. racecourse 2. race track 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
馬場 : [ばば]
 【名詞】 1. horse-riding ground 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

コンスタンティノープル競馬場 : ウィキペディア日本語版
コンスタンティノープル競馬場[こんすたんてぃのーぷるけいばじょう]


コンスタンティノープル競馬場(コンスタンティノープルけいばじょう、 )は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあったキルクス競馬戦車競走を行う施設)である。現在はスルタンアフメト・メイダヌ(スルタンアフメト広場、)またはアト・メイダヌ(馬の広場、)と呼ばれる広場になっており、トルコイスタンブルにある。単にヒッポドロームとも呼ぶ。本来の構造で現存している部分はごくわずかである。
「ヒッポドローム (hippodrome)」とは古代の競馬場を意味し、ギリシア語の「ウマ」を意味する ''hippos'' () と「道」を意味する ''dromos'' () を組み合わせた語である。ここで、競馬戦車競走が娯楽として開催されていた。
== 歴史 ==
この競馬場は東ローマ帝国の首都として栄えていたコンスタンティノープルと関連付けて考えられがちだが、実際はそれ以前から存在していた。最初の競馬場はこの都市がビュザンティオンと呼ばれていたころに建設されており、当時はローマ帝国内でも中規模程度の地方都市だった。203年、皇帝セプティミウス・セウェルスが都市を再建し城壁を拡張し、このとき戦車競走などの競技場としてこの競馬場を建設した。
324年、皇帝コンスタンティヌス1世ローマからビュザンティオンに遷都しノヴァ・ローマと改称した。しかしこの新名称は普及せず、間もなくコンスタンティノープル(コンスタンティヌスの都市)と呼ばれるようになった。コンスタンティヌス1世はこの都市を大幅に拡張し、その一環として競馬場も修復した。このときのコンスタンティノープル競馬場の大きさは、長さ で幅 と見積もられている。観客席には10万人が収容できた。
トラック部分はU字形で、皇帝専用の特別席 (Kathisma) はトラックの東側に位置していた。このKathismaは大宮殿と隣接していて、皇帝やその家族は専用通路で直接行き来できるようになっていた。トラックの北西端がレースのスタート地点になっていて、そこに Hippoddrome Boxes と呼ばれる現在の発馬機にあたる建物があり、その上に4頭の金メッキされた青銅製の馬の彫像があった。これら馬の彫像が古代ギリシアのものか古代ローマのものかも定かではないが、現在はサン・マルコの馬と呼ばれており、1204年の第4回十字軍のときにヴェネツィアに持ち去られ、サン・マルコ寺院のファサードに設置された。スフェンドン (Sphendone) は南端のU字部分にあった曲線を描いた観客席で、一部が現存している。トラック外周には名馬や名御者(チャリオットの操縦者)のブロンズ像が並んでいたが、全く現存していない。競馬場には他にも多数の神像、皇帝像、英雄像があり、有名なものとしてはリュシッポス作のヘーラクレース像、ロームルスとレムスと狼の像、プラタイアの三脚台(祭壇の一種)の一部である「蛇の柱」などがある。10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は著書『儀式の書』(第2巻、15、589)で、サラセン人またはアラブ人が訪れた際の競馬場の装飾について記しており、紫の壁掛けや珍しいタペストリーなどに言及している。
東ローマ帝国時代を通して、この競馬場は市民生活の社会的中心だった。特に7世紀までの東ローマ帝国では古代の「パンとサーカス」が継続していたため〔井上浩一栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(1998年 中央公論社)P37〕、競馬場では年間100日以上、1日に何レースもの戦車競走が開催され〔井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(2008年 講談社学術文庫)P89-90〕、莫大な金額が賭けられた。元々は4つのチームが競走に参加しており、それぞれのチームに元老院の政治勢力がスポンサーとして付いていた。チームは色分けされており、青 (Venetii)、緑 (Prasinoi)、赤 (Rousioi)、白 (Leukoi) があった。このうち赤と白は徐々に弱体化し、青と緑のチームに吸収されていった。
最大8つのチャリオット(各チーム2つ)が出走する。チャリオットは4頭立てのクアドリガである。戦車競走は単なるスポーツイベントではなく、皇帝と一般市民が同じ場所に会するまれな機会を提供していた〔渡辺金一『コンスタンティノープル千年』(1985年 岩波新書)P100-P116には、皇帝に直接政治的要求を行う市民と皇帝ユスティニアヌスの問答の様子が収録されている。〕。政治的会談もこの競馬場でよく行われた。これは、皇帝専用席 (Kathisma) が大宮殿と直接繋がっていたためである。このため戦車競争や競馬以外にも皇帝の即位式(アナスタシウス1世ユスティヌス1世など)〔渡辺金一『コンスタンティノープル千年』P81-91〕、凱旋式などの政治的イベントの会場や、公開処刑の場としても使用された。
青と緑のチームの抗争は政治的思惑や宗教的思惑とも関連してしばしば騒動を引き起こし、市内での内戦に発展したこともある。特に532年に勃発した市民の反乱・ニカの乱は深刻な被害をもたらした。将軍ベリサリウスらによって競馬場に集まっていた反乱派の市民約3万が殺され〔井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』P99〕、反乱による放火などでアヤソフィアなどの重要な建築物が破壊された。現在のアヤソフィアはニカの乱の後にユスティニアヌス1世が再建したものである。
7世紀以降、東ローマ帝国はオリエントや西方の属州の大半をイスラム帝国ランゴバルト人らに奪われ、「パンとサーカス」を維持できなくなった。このため競馬場の競走の回数は激減し、5月11日のコンスタンティノープル開都記念日や皇帝の誕生日などに行われるのみとなった〔井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』P138-139〕。しかし、回数こそ減ったものの11世紀のコムネノス王朝の時代においても戦車競走は市民の重要な娯楽であり、競走の開催時には古代以来の青・緑・白・赤の各チームを応援する市民達が熱狂していたことが記録されている〔根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』(1999年 講談社選書メチエ)P116-126〕。
1204年、コンスタンティノープルは第4回十字軍によって略奪され、その後以前のように完全に回復することはなかった。東ローマ帝国は1453年まで続いたが、そのころには競馬場は廃墟と化していた。1453年、オスマン帝国によって陥落しオスマン帝国の首都となったが、彼らは戦車競走を楽しむ趣味はなく、競馬場は忘れ去られていった。しかし、その跡地が完全に別の建物で覆われることもなかった。
競馬場はオスマン帝国皇帝アフメト3世の息子の割礼の儀式など様々な機会に使われた。オスマン帝国時代の細密画を見ると、観客席やオベリスクはそのままだったことがわかる。建物は現存していないが、現在のスルタンアフメト広場はかつての競馬場とほぼ同じ領域を占めている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コンスタンティノープル競馬場」の詳細全文を読む




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