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コストシン・ナド・オドロン : ミニ英和和英辞書
コストシン・ナド・オドロン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


コストシン・ナド・オドロン : ウィキペディア日本語版
コストシン・ナド・オドロン

コストシン・ナド・オドロン(, , , , , )は、ポーランド西部のルブシュ県オーデル川ヴァルタ川の合流点にある、ドイツとの国境に接する町である。2007年の住民数19,952名。
第二次世界大戦終結までは、以前のプロイセン王国にあったドイツの町で、キュストリン( または Cüstrin)と呼ばれていた。ベルリンから約65km東方に位置していて、16世紀以降その戦略的重要性から町の内外に要塞が構築されていった。独ソ戦末期の1945年に壮絶な戦闘が行われた結果、城壁で囲まれていた旧市街は完全に破壊され、未だに再建されていない。第二次大戦後、連合国ポツダム協定に基づきオーデル・ナイセ線に沿った新しい国境線を引いたので、キュストリンならびに地方は、ドイツ民主共和国ポーランド人民共和国の間で分割された。
== 歴史 ==
おおよそ960年から1200年まで、代々のポーランド公はこの地に城を築いて領地として治めていた。ポーランド公ミェシュコ1世はへの遠征()の際に、戦略的重要な拠点としてこの地を活用した。子のボレスワフ1世も、この地でバウツェンを征服する戦争の準備をした。12世紀にはポーランドの税務役所を兼ねた前哨基地に発展した。
1223年ヴワディスワフ・オドニツ王子からテンプル騎士団へこの地は与えられたが、1261年ブランデンブルク辺境伯に奪われた。ちなみに1232年チュートン騎士団へのポーランド語の手紙に、古いスラヴ語で ''Cozsterine'' と明記されており、これが キュストリン/コストシン という地名が記録に残されている最古のものである。

ブランデンブルク辺境伯によって、キュストリンへ1300年には既にマクデブルク法が適用されており、河川を使った貿易が大規模に行われるようになって町は急速に発展した。
ブランデンブルク=キュストリン辺境伯ヨハンは城を築いて居城にし、1535年から死去する1571年まで地方の都となっていた。やがてこの城は拡張され、この地方で最も大きい要塞の一つへと発展した。

後にプロイセン国王フリードリヒ2世(大王)として即位することになるフリードリヒ王子が18歳の時、王子の親友にして側近であるハンス・ヘルマン・フォン・カッテと、プロイセン王国からイギリスへ逃亡しようという企てが露見し、父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって1730年9月にこの城塞内の塔に監禁されている。同年11月6日、王子が閉じ込められていた塔の傍でカッテは処刑され、王子はその刑の執行を房の窓から見ているよう言いつけられていた。王子は父王から、牢から出されてもキュストリンに留められて、そこの役人から地方と都市の行政について学ぶよう命じられた。それから28年後、七年戦争中の1758年8月25日にフリードリヒ大王は自ら軍を率いて、ベルリンに迫りつつあるロシア帝国軍をキュストリンの北東10kmで迎撃し、ツォルンドルフの戦いが行われた。
ナポレオン戦争中の1806年にフランスに占領され、フランス軍の支配下に置かれた。フランス軍がロシア遠征している1814年に大火に見舞われたが、その後に復興し、プロイセン王国ならびドイツ帝国の鉄道網の重要な集積拠点の一つとなった。鉄道は1857年ベルリンとフランクフルト・アン・デア・オーダーに接続し、1875年にはポメラニアの沿岸都市シュチェチンにつながった。1900年、住民数は駐屯兵を含めて16,473人に達した。
第二次世界大戦勃発時、住民数は24,000人だった。
郊外のAlt-Drewitz(現在はコストシンの行政区の一つである)には、ナチス捕虜収容所が置かれ、主にフランス人イタリア人ソビエト連邦の捕虜が収容されていた。1943年から1945年には、いくつかの強制労働収容所とザクセンハウゼン強制収容所の施設の一部が置かれていた。
鉄道網が集積し32の工場があったことから、連合軍の空爆を受けた。また赤軍ゲオルギー・ジューコフ元帥率いる第1白ロシア方面軍の先鋒がキュストリンの北方でオーデル川に到達した1945年1月31日以降はキュストリン攻防戦が開始され、オーデル・ナイセの戦いゼーロウ高地の戦いにおいて、ドイツ国防軍は町を城塞としてオーデル川東岸部の橋頭保にしたことで、1945年3月末に赤軍にその周辺地域も含めて制圧された時には町の建物の約95%と32工場全てが破壊されていて完全に瓦礫の山と化していた。
荒廃したキュストリンは、ポツダム会談の決定によりオーデル川で分断され、町の大部分であるオーデル川より東側の地区は戦後、ポーランドの統治下に置かれ、ポーランド語名でコストシンと呼ばれるようになった。コストシンにまだ残っていたドイツ人は追いやられ(ドイツ人追放)、代わりにが移り住んだ。若き日のフリードリヒ大王が監禁された城塞を含む旧市街は崩れ落ち、そこの煉瓦はポーランドの他の街などの建設に再利用された。近年、旧キュストリンの姿で町の一部を史実に基づいて再建する計画が討論されているが、まだ具体化されていない。

2004年からコストシンでは年に一度、ヨーロッパ最大で、世界的にも最大レベルの野外音楽フェスティバルであるが、夏季に開催されている。
なお、旧キュストリンの一部だったオーデル川より西側の地区はドイツ領に残り、郊外の村落だったを合併して、現在と呼ばれる。2005年の住民数は2,953人である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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