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エトナ映画社 : ミニ英和和英辞書
エトナ映画社[-えいがしゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
映画社 : [えいがしゃ]
 (n) movie company
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 
: [やしろ]
 (n) shrine (usually Shinto)

エトナ映画社 : ウィキペディア日本語版
エトナ映画社[-えいがしゃ]
エトナ映画社(-えいがしゃ1934年9月 設立 - 1935年4月 解散〔)は、かつて京都に存在した映画会社である。サイレント映画を主体に、トーキーも製作したが、半年という短命に終わった。
== 略歴・概要 ==
かつて1925年(大正14年)に東亜キネマから独立した牧野省三が設立したマキノ・プロダクションが、等持院撮影所を東亜に譲り渡したさいに建設した御室撮影所を、同社の解散後、1932年(昭和7年)の正映マキノキネマ宝塚キネマが相次いで稼動させたが、いずれも解散した〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「御室撮影所 」の記述を参照。〕。
1934年(昭和9年)9月に田中伊助が出資して設立したのがこの「エトナ映画社」で、同撮影所を「エトナ映画京都撮影所」と改称して、映画を製作した。宝塚キネマから同地に残った後藤岱山や、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)から来た稲葉蛟児といったマキノ・プロダクション出身の監督をかかえ、マキノの敏腕宣伝部長都村健を宣伝部長に迎えた〔。撮影部は1930年(昭和5年)にマキノ・プロダクションを大道具の河合広始とともに退社、太秦双ヶ丘に撮影所を建設し「日本キネマ撮影所」を設立した田中十三とその一派の岸雅夫、脚本部は日活京都出身の野村雅延、俳優部は右太プロでは浅香麗三郎、河合映画製作社では燕東三郎と名乗った綾小路絃三郎〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「綾小路絃三郎」の項(p.21)を参照。同項執筆は奥田久司。〕、宝塚キネマから来た水原洋一や鳥人・高木新平新興キネマ五十鈴桂子らが主力となった。
9本の映画を製作したが、設立半年後の1935年(昭和10年)4月には解散した〔。解散後の稲葉、後藤、綾野小路は極東映画社へ、田中はフリーランスに、水原はマキノ正博マキノトーキー製作所へ、五十鈴は大都映画を経て極東へ、高木は地方巡業の旅に出た〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「高木新平」の項(p.311)を参照。同項執筆は田中純一郎・奥田久司。〕。宣伝部長の都村は通信合同社に入りジャーナリストの道を歩んだ〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「マキノ映画都村健コレクション 」の記述を参照。〕。
同社が稼動した御室撮影所は、松竹キネマが接収し、松竹御室撮影所(しょうちくおむろさつえいじょ)となったが、同所で松竹キネマが製作したのは、伊藤大輔監督の『あさぎり峠』(1936年)のみであった〔あさぎり峠 日本映画データベース、2010年2月18日閲覧。〕。
2004年(平成16年)6月11日、同社の全容判明との記事が「京都新聞」に掲載された〔「「エトナ映画社」全容判明 70年前 御室撮影所で映画製作 」(2004年6月11日付、京都新聞)、リンク切れ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エトナ映画社」の詳細全文を読む




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