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エカテリーナ・ダーシュコワ : ミニ英和和英辞書
エカテリーナ・ダーシュコワ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エカテリーナ・ダーシュコワ : ウィキペディア日本語版
エカテリーナ・ダーシュコワ[ちょうおん]

エカテリーナ・ロマノヴナ・ダーシュコワ公爵夫人Екатерина Рома́новна ДашковаPrincess Ekaterina Romanovna Dashkova1744年3月17日グレゴリオ暦3月28日) - 1810年1月4日(グレゴリオ暦1月16日))は、ロシア貴族ロシア皇帝エカチェリーナ2世の最も親しい友人であり、ロシアにおける主要な啓蒙主義者の一人。ロシア科学アカデミー院長、ロシア・アカデミー総裁として、エカテリーナ2世統治下のロシアにおいて文化・教育・科学政策を主導した。なお、日本語での表記は、「ダーシュコワ」の他、「ダーシュコヴァ」、「ダーシコワ」などがある。なおエカチェリーナ2世と同名であり、当然正式な発音は同じく「エカチェリーナ」である。
== 生い立ち ==
1744年3月17日エカテリーナ・ヴォロンツォーワ、後のエカテリーナ・ダーシュコワ公爵夫人は、ロマン・ヴォロンツォフ伯爵、マルファ・スミルナ夫妻の三女として生まれる。ヴォロンツォフ伯は元老院議員を務め、シベリアの富豪の家の出であるマルファ夫人を娶り金融業を営み、「大ポケットのロマン」の異称を持っていた。聡明な人物であったが、当時のロシアにおけるフリーメーソン(ロシア語では、マソンストヴォ)の中核メンバーでもあったことから世評は芳しくなく、強欲・変人と見なされていた。ロマンの弟でダーシュコワの叔父に当たるミハイル・イラリオノヴィッチ・ヴォロンツォフは、親仏派の政治家で、副宰相を経て、宰相にまで上り詰める。兄アレクサンドル・ヴォロンツォフは、商務長官、弟セミョーンは駐英大使をそれぞれ務めた。また、二人の姉マリアとエリザヴェータ(リーザ、後述)は、女官として宮廷に仕えた。
2歳の時に母マルファが亡くなり、ダーシュコワは叔父ミハイルの屋敷で養育され、フランス語イタリア語ドイツ語ラテン語、音楽、絵画に関して高い教育を受けた。若い頃から男勝りの才能と性格を発揮し、これが彼女の非凡な一生を形成した。12歳の時、麻疹にかかり郊外の別荘に隔離され、読書に没頭するようになる。数学を好んだ他、ベールモンテスキューヴォルテールヘルヴェティウスw:Claude Adrien Helvétius)らの著作を好んで読み耽った。少女時代に宮廷に参内を許され、皇太子妃エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃(後のエカテリーナ2世)と出会い、その一党の主要な一員となった。1752年2月、16歳を迎える前にリューリク朝以来の伝統を誇る名門貴族のミハイル・ダーシュコフ公爵と結婚し、モスクワに移った。二人の間には、長男ミハイル、長女アナスタシア、次男パーヴェルの二男一女が生まれた。1762年サンクトペテルブルクに移る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エカテリーナ・ダーシュコワ」の詳細全文を読む




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