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イサーク・バーベリ : ミニ英和和英辞書
イサーク・バーベリ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イサーク・バーベリ : ウィキペディア日本語版
イサーク・バーベリ[ちょうおん]

イサーク・エマヌイロヴィチ・バーベリ(、
1894年7月13日 - 1940年1月27日)はロシア作家
短編小説の名手と言われ、代表作である短編集『オデッサ物語』、『騎兵隊』は1920年代のロシアに衝撃を与えた〔嵐田「バーベリにおけるモーパッサン像」『新潟産業大学人文学部紀要』9巻、1,6頁〕。1930年代のソビエト連邦で起きた大粛清の対象とされ、銃殺された。
== 生涯 ==

=== 誕生 - 青年期 ===

バーベリは黒海に面する港町オデッサユダヤ人商人の家庭で生まれた〔藤沼、水野、井桁『はじめて学ぶロシア文学史』、381-382頁〕。一家はニコラーエフに引っ越し、バーベリはこの町の小学校で英語ドイツ語フランス語などを学んだ〔『世界の文学』28巻(木村彰一解説)、553頁〕。1905年初頭にバーベリはオデッサの商業学校に入学し、年末に一家はオデッサに戻る。バーベリは家庭ではイディッシュ語聖書、ユダヤ律法(タルムード)の教育を受けていた。20世紀初頭のオデッサの中産階級の間では子供に音楽を習わせることが流行しており、バーベリもその例に漏れず父からバイオリンを習うよう強制されていた〔嵐田「オデッサとバーベリ」『都市と芸術の「ロシア」』、89頁〕。商業学校在学中にモーパッサンフローベールなどのフランスの文学作品に傾倒し、フランス語による短編をいくつか書いた〔『世界の文学』28巻(木村彰一解説)、538頁〕。学生数に占めるユダヤ人子弟の入学割当制度のため、バーベリはオデッサ大学に入学できず、キエフ財務・企業活動単科大学(キエフ商科大学)に進学した〔中澤孝之『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち』(角川学芸, 2011年5月)、471-473頁〕。1911年にバーベリは大学に進学し、この地で最初の妻となるエヴゲーニヤ・グロンフェインと知り合った〔。1913年、キエフの雑誌でデビュー作となる『老シュロイメ』を発表する〔嵐田「1920年の日記とバーベリのユダヤ性」『新潟産業大学人文学部紀要』7巻、34頁〕。
1915年にバーベリはペテルブルクに上京し、ペテルブルク精神神経症単科大学法学部に編入学した〔。ペテルブルクで作家マクシム・ゴーリキーと知り合い〔、上京の翌1916年にゴーリキーは自身が編集する雑誌『年代記(年誌)』11号にバーベリの短編『イリヤ・イサークヴィチとマルガリータ・プロコフィエヴナ』『ママとリンマとアラ』を掲載した〔。しかし、ロシア政府はバーベリの小説を公序良俗と乱すものだと判断し、バーベリは処罰を受ける寸前の状態に追い込まれる〔ブラウン「バーベリ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、433-434頁〕。『年代記』11号に掲載された二作に続いて発表した作品はゴーリキーの目にかなうものではなく〔、ゴーリキーの助言を受けてバーベリは人生を知るために創作活動を中断した〔〔木村「バーベリ」『ロシアを知る事典』新版、594-595頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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