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ギュスターヴ・フローベール : ミニ英和和英辞書
ギュスターヴ・フローベール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ギュスターヴ・フローベール : ウィキペディア日本語版
ギュスターヴ・フローベール[ちょうおん]

ギュスターヴ・フローベール(フロベール)(Gustave Flaubert 発音例 1821年12月12日 - 1880年5月8日)はフランスの小説家。ルーアンの外科医の息子として生まれる。当初は法律を学ぶが、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年に4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。他の作品に『感情教育』『サランボー』『ブヴァールとペキュシェ』など。
フロベールは作品の中から作者の主観を排除し、客観的で精密な文体を通じて作中の人物に自己を同化させることを信条とした。風紀紊乱の罪が問われた『ボヴァリー夫人』裁判中に語ったといわれる「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉は、彼の文学的信念を端的に表すものとしてよく知られている。
== 生涯 ==

=== 少年期 ===
ノルマンディー地方の都市ルーアンにて、外科医アシル=クレオファス・フローベールとアンヌ=ジュスティーヌ・フローベール(旧姓フルーリオ)の間に生まれる。夫妻は六人の子供をもうけておりギュスターヴは第五子にあたるが、第二子(女)、第三子(男)は生後間もなく、第四子(男)はギュスターヴの生後すぐに死んでおり、ギュスターヴは9歳上の兄(父親と同じ名のアシル。後に父と同様、ルーアン市立病院の外科部長になる)と2歳下の妹を持つ三人兄妹の次男ということになる。父はルーアン市立病院の院長であり、幼少期から死や病を身近に見ながら育った。
9歳の頃すでに物語を書くことを試みており、また両親に連れられて観劇に行くと劇作家を夢見て芝居の脚本を書くなどしていた。ルーアンの祭りでは悪魔と戦う聖アントワーヌ(聖アントニウス)の人形芝居に夢中になり、この主題は長く彼の生涯に付きまとうことになる。1831年、9歳半ルーアンの王立中学に入学。文学と歴史が得意科目で、前年からの友人エルネスト・シュヴァリエの他、アルフレッド・ル・ポワットヴァン(ギ・ド・モーパッサンの叔父)、ルイ・ブイエらと親しくなる。フロベールはヴィクトル・ユーゴーアレクサンドル・デュマ・ペールミュッセ、より後にはヴォルテールシェイクスピアラブレーといった作家を読みふけり、作家を夢見て物語を作ることに熱中した。10代の頃の創作にはロマン主義的な陶酔や大げさな文章が多いが、反面風刺的な小話や好色話といったものも多数手がけている。現存するもので最初の文章は1831年のもので、コルネイユを賛美する短文、続いて便秘の研究と称する文章が残っている。
1836年の夏の休暇の際に一家でトルーヴィルの海水浴場へ旅行し、ここでパリで音楽出版を手がけているシュレザンジェ夫妻と出会う。14歳のフローベールは11歳年上の夫人に激しい恋心を抱き、旅行から帰った後にこの出会いを主題にして『狂人の手記』を執筆した。夫妻との付き合いはその後も続き、後に『感情教育』でもこの題材を取り上げることになる。1837年、年上の友人で先に卒業していたポワットヴァンの主催する地元新聞『ハチドリ』に、バルザックの『結婚の生理学』から着想を得た風刺的な作品を掲載、これが初めて公にされた文章となる。
1838年より高等学校に入学、ユゴー、モンテーニュサドラブレーゲーテバイロンらに心酔しつつ『芸術と商業』『マテュラン医師の葬式』『ラシェル嬢』などの物語、また後の『聖アントワーヌの誘惑』を思わせる中世風の史劇『スマール』に力を注ぐ。哲学科に入ったフローベールは当初教授にかわいがられたが、しかしその後強権的な教授に代わるとクラスを挙げて反発、抗議文書を書いて署名を集めるなど嘆願活動を行なった。これにより退学を恐れた父の判断で1839年12月に学校を辞め、フロベールは翌年のバカロレアに独学で望まなければならなくなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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