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アレクサンドル・デュマ・ペール : ミニ英和和英辞書
アレクサンドル・デュマ・ペール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アレクサンドル・デュマ・ペール : ウィキペディア日本語版
アレクサンドル・デュマ・ペール[ちょうおん]

アレクサンドル・デュマ(, 1802年7月24日 - 1870年12月5日)は、フランスの小説家。『椿姫』を著した同名の息子と区別するために、「父」を意味する père を付して大デュマ(Dumas, père)とも呼ばれる。
== 人物 ==
1802年7月24日に同名の父トマ=アレクサンドル・デュマ将軍と母マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレの子として北フランスエーヌ県ヴィレール・コトレに生まれる。父デュマは、黒人と白人が混血した、いわゆるクレオールである(フランスなどでは混血したほうが血が強くなる、という考え方がある)。その勇猛さから「黒い悪魔 Le diable noir」とあだ名された〔日本語サイト [デュマ家の人々 ]に、背景が解説されている。〕。
ナポレオンがデュマ将軍の死後、遺族に終身年金を下付しなかったため、幼少期は貧しい生活を余儀なくされ、まともな学校教育を受けることが出来なかった。ただし、本人自身も勉強に身をいれるようなことはなかったという。15歳で、公証人役場で見習いとして働きはじめるが、17歳のときに『ハムレット』の劇を見て感激し、劇作家を目指す。パリに上京し、父の友人の紹介で、オルレアン公爵(後のフランス国王、ルイ・フィリップ)家の秘書室に勤めることになったデュマは文学や歴史の勉強に励んだ。
1829年、戯曲『アンリ三世とその宮廷』の成功によって一躍名をあげ、歴史劇『クリスティーヌ』や自身の不倫体験をもとにした現代劇『アントニー』などを次々と新作を発表し、たちまちのうちに売れっ子劇作家となった。
やがて、元歴史教師でフランス史に造詣が深いオーギュスト・マケと組んで、歴史小説も発表するようになった。当時、新聞各紙は購読者を増やすために小説を連載するようになっており、これに目をつけたデュマは、新聞各紙に、『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』、『三銃士』に始まる『ダルタニャン物語』、『王妃マルゴ』、『王妃の首飾り』などを連載し、どれもベストセラーとなった。デュマの懐には莫大な金がころがりこんだが、彼はその金で豪邸「モンテ=クリスト城」を建て、毎夜酒宴を開き、女優たちと浮名を流すといった派手な生活を繰り広げた。さらに、国王ルイ・フィリップの五男モンパンシエ公爵の庇護の下、1847年に「歴史劇場」を建設し、自分の作品を劇にして上演させた。デュマの作品はどれも大当たりで、劇場経営でも巨富を手にした。
しかし、1848年の二月革命によって後援者のルイ・フィリップは国を追われ、さらに革命後の混乱のために市民は劇場へ足を運ばなくなり、歴史劇場は大きな赤字を生み出すようになった。長年の浪費生活でこれまで稼いだ金も使い果たし、1851年、裁判所から破産宣告が降りた。そのため、一時ベルギーに逃亡するが、後に債権者と妥協が成立し、フランスに帰国することが出来た。その後はかつてのベストセラーにあやかった『ムスクテール(銃士)』や『モンテ=クリスト』といった新聞を自ら発行し、自分の作品を掲載するが、両紙とも短期間で廃刊を余儀なくされた。
1870年、子供たちに見守られながら息を引き取る。ベストセラーを連発し、莫大な金が流れ込んでいたにもかかわらず、晩年にはそのほとんどを使い果たしており、少量の絵画と家具しか残っていなかったという。
父同様、黒人奴隷の子孫として人種差別を受けたデュマは、政治的には共和主義自由主義の立場に立ち、社会改革にも取り組んだ。七月革命においては革命軍に参加し、ナポレオン3世の圧制に耐えかねてベルギーに亡命したフランスの知識人を保護したり、ガリバルディイタリア統一運動を支援したりした。1848年には自身が憲法制定議会議員選挙・同補欠選挙に立候補しているが、これには惨敗。自分の自慢話を延々紹介するだけのアピールを有権者向けに発表して、かえって反発をかったことが原因だったらしい。
2002年11月30日、生誕200周年を期にパリのパンテオンに祀られた。作家としてはヴォルテールジャン・ジャック・ルソーヴィクトル・ユゴーエミール・ゾラアンドレ・マルローに次ぎ6人目。交流のあったユゴーとは一世紀以上ずれた、式典に際し当時のシラク大統領は、作品の愛読者だった事を述べると共に出自による人種差別等が原因で、遅れたことを認め悔いるコメントを表明した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレクサンドル・デュマ・ペール」の詳細全文を読む




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