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アルメニア人虐殺 : ミニ英和和英辞書
アルメニア人虐殺[あるめにあじんぎゃくさつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
虐殺 : [ぎゃくさつ]
  1. (n,vs) atrocity 2. massive killing 
: [さつ]
 【名詞】 1. kill 2. murder 3. butcher 4. slice off 5. split 6. diminish 7. reduce 8. spoil 

アルメニア人虐殺 : ウィキペディア日本語版
アルメニア人虐殺[あるめにあじんぎゃくさつ]

アルメニア人虐殺(アルメニアじんぎゃくさつ)は、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。ヨーロッパ諸国では、特に第一次世界大戦に起きたものをオスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺と見る意見が大勢である。それによれば、この一連の事件は「アルメニア人ジェノサイド」と呼ばれ、21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な後継国家であるトルコ共和国を非難している。トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。
== 問題の概要 ==
19世紀末と20世紀初頭の二度にわたり、オスマン帝国領内でアルメニア人に対する大規模な虐殺が起きた〔Armenian massacres , Encyclopædia Britannica.〕。このうち第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地 (いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部 (いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これにともなって数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイドの一つであるとみなすものは少なくない〔www.genocidewatch.org 〕〔Council of Europe Parliamentary Assembly Resolution, April 24, 1998 .〕〔Ferguson, Niall. ''The War of the World: Twentieth-Century Conflict and the Descent of the West''. New York: Penguin Press, 2006, ISBN 1-59420-100-5, p. 177.〕〔A Letter from The International Association of Genocide Scholars on 13/06/05 .〕。アルメニア人社会では「虐殺ナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコ共和国に至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は、ジェノサイド追悼記念日とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。
アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている〔Totten, Samuel, Paul Robert Bartrop, Steven L. Jacobs (düz.) ''Dictionary of Genocide'', Greenwood Publishing Group, 2008, ISBN 0-313-34642-9, p. 19. 〕〔Noël, Lise, ''Intolerance: A General Survey''. Arnold Bennett, 1994, ISBN 0-7735-1187-3, p. 101.〕〔Schaefer, T (haz.). ''Encyclopedia of Race, Ethnicity, and Society''. Los Angeles: SAGE Publications, 2008, p. 90.〕〔The criminal law of genocide: international, comparative and contextual aspects, by Ralph J. Henham, Paul Behrens, 2007, p. 17〕。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシア本土以外に住むギリシア系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している〔Yusuf Hikmet Bayur, ''Türk İnkılâbı Tarihi'', Cilt: III 1914-1918 Genel Savaşı, Kısım: IV Savaşın Sonu, Türk Tarih Kurumu basımevi, Ankara, 1991, ISBN 975-16-0331-5, p. 787.〕。
さらに第一次世界大戦の終結後、アルメニア第一共和国オスマン帝国領のアルメニア人居住地域を含む領土拡大を目指したが、モスクワのアナトリー・ゲッケル指揮下の赤軍第11軍 (11th Army)とアンカラ政府のキャーズム・カラベキル指揮下の東部戦線 (Eastern Front)の攻撃の前に粉砕された。この戦乱でも多くのアルメニア人が命を落とした。
また、アルメニア人の他に、アッシリア人ポントス人 (ルム)に対する虐殺事件も起きた〔.〕〔Gaunt, David. ''Massacres, Resistance, Protectors: Muslim-Christian Relations in Eastern Anatolia during World War I ''. Piscataway, New Jersey: Gorgias Press, 2006.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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