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アルフォンス・ミュシャ : ウィキペディア日本語版
アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・マリア・ミュシャAlfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。「ミュシャ」という表記はフランス語の発音によるものであり、チェコ語の発音を日本語表記すると。
多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は宝石などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道12宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『』が挙げられる。
== プロフィール ==
オーストリア帝国モラヴィアのに生まれた。ブルノ中学校に入り教会の聖歌隊となった。夏休みに合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とした。中学校を中退、地方裁判所で働く。19歳でウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う。2年後失業。1883年ミクロフでクーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンに通う。
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナール芝居のために作成した「ジスモンダ」(en)のポスターである。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事にしたが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼した物だった。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、文字通り一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。またサラ・ベルナールにとっても、この「ジスモンダ」が、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった。その後もミュシャは「椿姫」、「メディア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」など、サラ・ベルナールのポスターを制作している。
サラ・ベルナールの他、煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスターの制作をおこなっている。これらは女性と様式化された装飾の組み合わせが特徴的である。

ポスターに並び、装飾パネルも数多く手がけている。2点ないし4点のセットの連作が多く、いずれも女性の姿を用いて様々な寓意を表現している。代表的な作品には以下のようなものがある。
* 『ビザンティン風の頭部』-「ブルネット」、「ブロンド」;(1897年)
* 『四芸術』-「」、「ダンス」、「絵画」、「音楽」;(1898年)
* 『四つの宝石』-「アメジスト」、「エメラルド」、「トパーズ」、「ルビー」;(1900年)
* 『四つの』-「明けの明星」、「北極星」、「宵の明星」、「」;(1902年)

Image:Alfons Mucha - 1896 - Spring.jpg|
『春』

Image:Alfons Mucha - 1896 - Summer.jpg|
『夏』

Image:Alfons Mucha - 1896 - Autumn.jpg|
『秋』

Image:Alfons Mucha - 1896 - Winter.jpg|
『冬』


また、忘れてはならないのが挿画本分野の作品である。
パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てていたが、次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍するようになる。東洋的な情景をドラマチックに描き、高い評価を得た「白い象の伝説」、33点の木版画が挿入され、挿画家としての名声を高めた「ドイツ歴史の諸場面とエピソード」も、同社から出版された作品である。
代表的な作品には、年代順に以下のようなものがある。
* 『白い象の伝説』(1894年) 木版画
* 『ドイツ歴史の諸場面とエピソード』(1896年)木版画
* 『トリポリの姫君イルゼ』(1897年リトグラフ
* 『アダミテ』(1897年) 木版画/フォトレリーフプリント
* 『ラマ』(1898年) リトグラフ
* 『主の祈り』(1899年) リトグラフ/版画集
* 『クリオ』(1900年) リトグラフ
* 『UTOK MORE』(1922年) プリント
* 『ANDELICEK Z BAROKU』(1929年) プリント/サイン入200部有
宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力。挿画本分野において、ミュシャは独自の、そして輝かしい業績を残している。
商業的に成功をおさめ、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作「」を制作する。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものである。スメタナの組曲『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成まで20年を要している。
また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけている。1918年ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣切手、国章などのデザインを行った。財政難の新しい共和国のためにデザインは無報酬で請け負ったという。
1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体された。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕された。「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、またそれは78歳の老体には耐えられないものであった。その後ミュシャは釈放されたが、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じた。遺体はヴィシェフラット民族墓地に埋葬された(現在はヤンラファエルのクベリーク親子と同じ墓石に埋葬されている)。
戦後、祖国は独立を果たしたが、共産党政権は愛国心との結びつきを警戒し、ミュシャの存在を黙殺した。しかし、民衆レベルでミュシャへの敬愛は生き続け、プラハの春翌年の1969年には、ミュシャの絵画切手数種が制作されている。また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、改めて高い評価を受けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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