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アラン・ドワン : ミニ英和和英辞書
アラン・ドワン[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

アラン・ドワン : ウィキペディア日本語版
アラン・ドワン[らん]


アラン・ドワンAllan Dwan1885年4月3日 - 1981年12月28日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家映画プロデューサーである。サイレント映画からの430本を超える作家的キャリアをもつ、パイオニアのひとりである。
== 人物・来歴 ==
1885年(明治18年)4月3日カナダオンタリオ州トロントに生まれる。11歳のときに、家族とともにアメリカ合衆国のミシガン州デトロイトに移住した。
インディアナ州サウスベンド近郊のカトリック系大学ノートルダム大学で工学を学び、イリノイ州シカゴの電器会社にエンジニアとして入社した。
その後、シカゴの映画会社エサネイ・スタジオに入社し、脚本を書く。1911年(明治45年)、26歳のときに、シカゴのアメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーカリフォルニア州サンディエゴのラメーサに撮影所を建設、同撮影所で、J・ウォーレン・ケリガン主演の『策略』で映画監督としてデビューする。同社において、1913年(大正2年)、プロデューサー業に進出する。メアリー・ピックフォードダグラス・フェアバンクス主演作を多く手がけた。
1914年(大正13年)、同州サンタモニカのビゾン・スタジオで初の長篇映画『リシュリュー』を監督、同年、フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー(のちのフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー)に移籍し、『ワイルドフラワー』等を監督した。
1915年(大正4年)、ファイン・アーツ・フィルム・カンパニーに移籍、ドロシー・ギッシュ主演作『邪道』を監督、ドロシー主演作を多く手がける。同年6月18日アメリカ映画監督協会設立に参加する。同年、監督デビュー作『策略』に出演した女優のポーリン・ブッシュと結婚する。1921年(大正10年)、離婚し、翌1922年(大正11年)、女優のマリー・シェルトンと結婚する。1928年(昭和3年)の『怪我騒動』までのサイレント映画の時代は、ドワンの全盛期であり〔#外部リンク欄、「アラン・ドワン」リンク先の記述を参照。〕、実に360本を超える映画を監督した。
1929年(昭和4年)、ユナイテッド・アーティスツ配給の『鉄仮面』からはトーキーにとりくみ、同年、フォックス・フィルム(現在の20世紀フォックス)に移籍し、 『南海の薔薇』等を手がけた。1930年(昭和5年)には、女優グロリア・スワンソンのハウスプロダクション、グロリア・プロダクションズでスワンソン主演の『陽気な後家さん』を監督した。1937年(昭和12年)には、シャーリー・テンプル主演の『ハイデイ』、翌1938年(昭和13年)には『農園の寵児』を手がけ、天才子役の黄金時代に貢献した。45歳から55歳にかけての1930年代には、大幅に本数が減ったが、26本を監督している。
1941(昭和16年)以降、第二次世界大戦中は、RKOエドワード・スモールエドワード・スモール・プロダクションズでコメディを多く手がけた。戦後、1946年(昭和21年)にマイナー映画会社リパブリック・ピクチャーズに入社、同年の『アニーとのランデヴー』を手始めに、同社で『アリゾナの嵐』(1948年)、俳優ジョン・ウェインアカデミー賞にノミネートされた『硫黄島の砂』(1949年)等を手がける。55歳から65歳にかけての1940年代には、19本を手がけた。
1954年(昭和29年)、69歳になってからの4年間、ベネディクト・ボジャースの製作会社ベネディクト・ボジャース・プロダクションで映画界最後の日々を過ごすことになる。同年の『逮捕命令』や『バファロウ平原』等、12本を手がけた。1957年(昭和32年)、『地上で最も危険な男』を撮影するが、1961年(昭和36年)まで公開されなかった。同作は、のちにヴィム・ヴェンダースが監督した映画『ことの次第』(1981年)の劇中でリメイクされる。
1976年(昭和51年)、91歳のとき、ロサンゼルス映画批評家協会賞永年功労賞を受賞する。
1981年(昭和56年)12月28日カリフォルニア州ロサンゼルスで死去した。満96歳没。映画における功績により、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(6263 Hollywood Blvd.)に名を残す。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アラン・ドワン」の詳細全文を読む




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