翻訳と辞書
Words near each other
・ リパブリック (ゲーム)
・ リパブリック (客船)
・ リパブリック (航空機メーカー)
・ リパブリック サンダーボルト
・ リパブリックエアウェイズ・ホルディングズ
・ リパブリックプラザ
・ リパブリック・アビエーション
・ リパブリック・アヴィエーション
・ リパブリック・エアラインズ
・ リパブリック・オブ・チャイナ
リパブリック・ピクチャーズ
・ リパブリック・レコード
・ リパブリック号
・ リパブリック映画
・ リパブリック航空
・ リパブリック讃歌
・ リパブリック賛歌
・ リパブリック郡
・ リパブリック郡 (カンザス州)
・ リパブリック駅 (LIRR)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

リパブリック・ピクチャーズ : ミニ英和和英辞書
リパブリック・ピクチャーズ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブリック : [ぶりっく]
 《料理》Brick チュニジア風の餃子に似た包み焼き。
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リパブリック・ピクチャーズ : ウィキペディア日本語版
リパブリック・ピクチャーズ[ちょうおん]
リパブリック・ピクチャーズ(Republic PicturesまたはRepublic Entertainment, Inc.)は、アメリカ合衆国の映画製作・配給会社である。
B級映画西部劇連続活劇に特化している。代表作はオーソン・ウェルズ主演のシェイクスピア映画『マクベス』。
== 社史 ==

=== 黎明期 ===

1935年、長年映画や音楽に投資を行い、 コンソリデイテッド・フィルム・インダストリーズを設立してその代表の座についてきたハーバート・J・イエーツは、6つのポヴァティ・ロウ映画のスタジオ連合としてリパブリック・ピクチャーズを立ち上げた。
1930年代の大恐慌の中、イエーツの会社は多くのポヴァティ・ロウのスタジオ相手に事業を行っていた。1935年、イエーツは、プロダクションの代表になるチャンスをつかんでいた。6つのスタジオ(モノグラム・ピクチャーズ、マスコット・ピクチャーズ、リバティ・フィルムズ、マジェスティック・フィルムズ、チェスターフィールド・モーション・ピクチャーズ、インヴィンシブル・ピクチャーズ)は全てイエーツの会社に借金があった。イエーツはこれら6つのスタジオに、イエーツ主導による映画事業の統合を持ちかけ、もし断ったら未払い金に対する抵当権を実行するとして同意を迫った。6つのスタジオは統合に同意し、かくしてリパブリック・ピクチャーズは低予算映画に特化した合弁企業として誕生した。
リパブリックの構成企業の中で最も規模が大きかったのはTrem CarrとW. Ray Johnstonの経営するモノグラム・ピクチャーズである。この企業はB級映画の制作に特化しており、きちんとした全米配給システムをもっていた。技術面で優れていたのはNat Levine率いるマスコット・ピクチャーズで、この企業は1920年代半ばから連続活劇ばかりを作ってきた。この企業はスタジオ・シティにある マック・セネット-キーストーンから受け継いだスタジオを所有しており、施設の面でも一流であった。また、リパブリックができた当時、マスコットはジーン・オートリーの才能を見出しており、自社作品にカウボーイ・スターとして出演してもらう契約を結んだ。ラリー・ダームールのマジェスティック・フィルムズは大物スターの出る映画を作り続けて発展してきた会社で、リパブリックからセットを借りて自社作品に彩りを添えた。リパブリックのロゴである『リバティ・ベル』(''Liberty Bell'')はM・H・ホフマンのリバティ・フィルムズ( フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』をプロデュースした リバティ・フィルムズとは別の会社である。ただし、 『素晴らしき哉、人生!』の版権は現在リパブリックにある)からきている。チェスターフィールド・モーション・ピクチャーズとインヴィンシブル・ピクチャーズの経営者は同じ人物で、この2つの姉妹会社は低予算のメロドラマやミステリ映画を作るのに長けていた。これら6つがリパブリック・ピクチャーズとして1つになったとき、リパブリックは経験を積んだスタッフ・B級映画の名わき役たち・将来を約束されたスター・完璧な配給システムそしてちゃんとした映画スタジオを持つ制作会社として、恵まれたスタートを切った。合弁企業の傘下に入る代わりに、6つのスタジオの代表者たちはリパブリックの庇護のもと、独立した活動を続け、映画の質を上げるために予算を増やした。
パートナーになった企業から映画製作と配給に関するコツを学んだイエーツは、だんだんパートナー企業に対して権威をふるうようになり、パートナー企業の間ではイエーツに対する不満が浮かび上がってきた。カーとジョンソンはリパブリックを去り、モノグラムで再び活動を開始し、ダームールはコロンビア映画に移籍して独立した活動を続けた。Levineもリパブリックを去ったが、スタッフもスタジオも俳優もリパブリックとイエーツおよびリパブリックと契約していたため、失ったものを埋め合わせることはできなかった。パートナー企業が次々と去っていったイエーツのもとには、"自分の"映画スタジオと、自由な発想とテーマを持ったベテランの映画スタッフとしてではなくただ単に彼に従って来た古参の製作・配給スタッフだけが残った。
なお、リパブリックは カウボーイ歌手ジーン・オートリーロイ・ロジャースの2人のレコードを出すために:en:Brunswick Recordsを買収し、 サイ・フューアーを自身の音楽部門のトップに採用した〔Feuer, Cy and Gross, Ken ''I Got The Show Right Here: The Amazing, True Story of How an Obscure Brooklyn Horn Player Became the Last Great Broadway Showman'' Simon & Schuster 2003〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リパブリック・ピクチャーズ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.