翻訳と辞書
Words near each other
・ 赤松真人
・ 赤松瞭
・ 赤松祐高
・ 赤松秀雄
・ 赤松範一
・ 赤松範実
・ 赤松範資
・ 赤松美和子
・ 赤松義利
・ 赤松義則
赤松義村
・ 赤松義祐
・ 赤松義雅
・ 赤松良子
・ 赤松芳朋
・ 赤松茂
・ 赤松蕙子
・ 赤松要
・ 赤松貞明
・ 赤松貞村


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

赤松義村 : ウィキペディア日本語版
赤松義村[あかまつよしむら]

赤松 義村(あかまつ よしむら)は戦国時代前期(室町時代後期)の播磨守護大名戦国大名赤松家の第10代当主(当主在職:明応4年(1496年4月 - 永正17年(1520年))。
播磨・備前美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則婿養子に当たる。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続した。
義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図ったが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立。播磨など赤松領で内紛となる。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居したが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落した。
== 生涯 ==

=== 出生 ===
義村の生年は文明2年(1470年)・文明4年(1472年)・延徳2年(1490年)・明応3年(1494年)などの諸説がある。ただこれらは赤松家の系図や後世の軍記物を参考にしたもので、また政則の生年や仮名の時期を考慮すると文明年間の生まれは考えにくいとされている〔渡邊大門『赤松氏五代』P292〕。
義村の幼名は道祖松丸(さえまつまる)といい、これは赤松家の歴代当主の幼名である。仮名(通称)は二郎であり、これも赤松家の歴代当主の名乗りである〔。
養父(岳父)・政則は嘉吉の乱で一時滅亡した赤松氏を再興した中興の英主であるが、男子に恵まれなかったので〔庶子赤松村秀がいたが死去の際は4歳であり、生まれてすぐに政則は宇野政秀に託していることから跡継ぎとはしていなかったようである。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。306頁。〕、義村は延徳元年(1489年)に義村は政則の婿養子となり、明応5年(1496年)に政則が急死したため、跡を継いだ。ただし、政則の死は急死だったため、義村の家督相続は政則の意思ではなく、政則の時代から赤松家中で権勢を振るっていた重臣の浦上則宗をはじめ、別所則治小寺則職薬師寺貴世赤松則貞による画策とも伝わる〔『書写山縁起附録』〕。
当主就任時はまだ幼少だったとされるが、婿養子になった際に妻の政則娘(小めし)は18歳だったとされているので、義村もほぼ同年だったのではないかと思われ、政則没後の3ヵ月後の7月には奈良に出陣していることから、成人していたものと推測できる〔『赤松円心・満祐』吉川弘文館。275頁・306頁。〕。政則の急死で赤松家は混乱して没後4ヵ月後の8月には播州錯乱といわれる内乱が起こり〔『後法興院記』〕〔『赤松円心・満祐』吉川弘文館。276頁・306頁。〕、それに乗じて家老・守護代浦上則宗が権勢を振るった。それに反発した一族の浦上村国が則宗と対立し、播磨で内乱が始まった〔『東寺文書』では播州東西取合合戦と記録している〕〔『赤松円心・満祐』吉川弘文館。276頁。〕。当時の幕府管領である細川政元が明応8年(1499年)末にこれを仲裁している。則宗が文亀2年(1502年)6月11日に三石城で死去したため、義母の洞松院が義村の成人までの後見役を務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「赤松義村」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.