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赤松貞明[あかまつ さだあき]
赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月30日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。支那事変の撃墜王。太平洋戦争の撃墜王。 == 経歴 == 1910年(明治43)7月30日高知県で生まれる。1928年(昭和3年)6月佐世保海兵団に入隊、四等水兵。1929年(昭和4年)大村航空隊所属の柴田武雄中尉の従兵となる〔碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(光人社、2000年)113頁〕。柴田によれば、赤松は外出しては酔って暴れ、そのたびに柴田がもらい下げにいったという〔碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』113-114頁〕。1930年(昭和5年)5月、第17期操縦練習生。教官は源田実大尉〔『太平洋戦争実戦ノート トラトラトラ』117頁〕。1932年(昭和7年)3月、同修了。その後、大村航空隊、空母「赤城」、「龍驤」、「加賀」に配属。 1934年、横須賀海軍航空隊に配属。精鋭の実験部隊であり、特殊編隊飛行の公演も行った源田実分隊(通称源田サーカス)に所属。赤松は海軍初の全金属製単葉機の実験にも参加していた〔零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』文春ネスコ20頁〕。 1935年10月に横空分隊長に着任した柴田武雄大尉によれば、柴田は体質もあって空戦に弱かったため、赤松は柴田を見くびっていたが、柴田考案の旋回戦法を試した際に勝ったことがあるという〔碇義朗『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』119-120頁、丸『海軍戦闘機列伝』光人社52-66頁〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤松貞明」の詳細全文を読む
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