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西園八校尉 : ウィキペディア日本語版
西園八校尉[さいえんはつこうい]
西園八校尉(さいえんはつこうい)は、中国の後漢末期、188年に置かれた官職の総称。また西園三軍という。皇帝直属の部隊である「西園軍」を創設し、その「西園軍」を率いる人物として、霊帝に寵愛された蹇碩(『三国志演義』では十常侍の一人とされる)、袁紹鮑鴻の3名を中心にすえた。古くは鎌田重雄、近年では石井仁上谷浩一等によって研究が進んだ。特に石井の指摘は重要な意味を多く含んでいる。
==特徴==

===成立まで===
中平五年(188年)、黄巾の乱以後の混乱が続く中、望気者(雲気を見て吉兆を占う人)が、都で戦が起こり両宮で血が流れると予言した。これを聞いた大将軍司馬許涼と、假司馬伍宕が、大将軍であった何進に「『六韜』には天子が将兵を率いるという記述があり、それに倣って皇帝が将兵を率いて四方を威厭すべきである」と献言する。
その意見を受けて何進は霊帝に上奏し、霊帝は何進に四方から兵を徴発するよう命ずる。
:これが成立の根拠かどうかは、史料によっては正しいとは言えない。また、仮に范曄の『後漢書』に従ったとしても、この兵をそのまま西園軍ととらえることは危険である。
そして、8月に「西園軍」が設置された。
10月に、平楽観(宮殿の西側、西園にある演場)において閲兵式が行われた。これには霊帝自らが出席しており、甲冑を身に纏って騎乗し、自らを「無上将軍」と称した。その横に何進が控えた。そして、ここで西園八校尉が任命された。
『後漢書』「何進伝」によると、
* 上軍校尉 ― 蹇碩(小黄門)
* 中軍校尉 ― 袁紹(虎賁中郎将)
* 下軍校尉 ― 鮑鴻(屯騎都尉)
* 典軍校尉 ― 曹操(議郎)
* 助軍校尉 ― 趙融
* 佐軍校尉 ― 淳于瓊
その他、左右校尉があったとある。
山陽公載記』によると、
* 上軍校尉 ― 蹇碩(小黄門)
* 中軍校尉 ― 袁紹(虎賁中郎将)
* 下軍校尉 ― 鮑鴻(屯騎校尉)
* 典軍校尉 ― 曹操(議郎)
* 助軍左校尉 ― 趙融
* 助軍右校尉 ― 馮芳
* 左校尉 ― 夏牟諫議大夫
* 右校尉 ― 淳于瓊
とある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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