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范曄 : ウィキペディア日本語版
范曄[はん よう]

范 曄(はん よう、398年 - 445年)は、中国魏晋南北朝時代の南朝政治家文学者歴史家にして『後漢書』の作者。蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現河南省淅川)の出身であり、会稽郡山陰県(現浙江省紹興)にて出生した。
==略歴==
范曄は士族の家に生まれた。祖先の范晷は西晋雍州刺史、曾祖父の范汪東晋安北将軍二州刺史・武興県侯、祖父の范寧は臨淮太守・豫章太守、父の范泰は宋の侍中光禄大夫となり、死後は車騎将軍を追贈されている。范汪は「博覧強記にして、道理に通ず」とあり、『尚書大事』20巻・『範東陽方』105巻などを著している。范寧は『春秋穀梁伝集解』12巻を著し、范泰も『古今善言』24巻を著したという。范曄は兄の范昂、范暠、范晏と末弟の范広淵がいた。
范曄は名門の生まれであったが、妾の生んだ庶子であった。范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚に当たって傷ついてしまったため、「磚」が范曄の小字となった。若くして学問を好み、経史に広く通じ、文章に巧みで音律にも通じていた。420年劉裕が東晋の禅譲を受けて宋を建国すると、范曄は劉裕の子、彭城劉義康の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・荊州別駕従事史・秘書丞・征南司馬領新蔡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任した。
432年、范曄は劉義康の母の葬儀の最中、宴席を開いたことから劉義康の怒りを買い、宣城太守(現在の安徽省)に左遷された。宣城在任中、志を得ずにいることから、それまでの史家たちが編纂した『後漢書』の記述を整理し、自ら『後漢書』を編纂した。数年後に許されて長沙王劉義欣の鎮軍長史・寧朔將軍、始興王劉濬の後軍長史・南下邳太守、さらに太子詹事などを歴任した。
当時、劉義康は文帝の弟として宰相の位にいて、内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝の文帝を凌いでいた。440年、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。445年、散騎侍郎の孔熙先は劉義康の復権と擁立を謀り、范曄にも謀議の参加を誘った。当初、范曄は孔熙先を軽んじていたため、謀議に荷担することを望まなかったが、結局は孔熙先らの謀議に加わった。11月、丹陽尹徐湛之の告発により孔熙先らの計画は発覚し、范曄は自身を含む一家全員が処刑された。享年48。末弟の范広淵も兄に連座されて処刑された。 

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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